第四話:楽市の喧騒と、泥中の伏龍
西暦1559年(永禄二年)・一月
数日間降り続いた雪がようやく止み、近江の空には突き抜けるような冬の青磁色が広がった。山肌にはまだ白銀が残るものの、繖山の麓に広がる観音寺の城下町は、雪解けの泥を跳ね飛ばすような活気に満ち溢れていた。
猿夜叉は、その喧騒の中にいた。
(いつ来ても、この街の熱気には圧倒される。先々代の弾正少弼(六角定頼)様が『楽市』を定められてから十年余り。商人の座を解き、誰にでも商いを許すというこの試みが、これほどの富を城下にもたらすとは……)
猿夜叉は通りに並ぶ店先を、観察していた。特産の麻布、湖で獲れた魚、そして遠く大陸から運ばれてきたであろう陶磁器。それらが「銭」という血流に乗って、この街を脈動させている。
「……あ、ああ、これは失礼した! 足元が滑ってしまいましてな、お恥ずかしい」
突如、猿夜叉が大きな体を不器用そうに揺らし、泥道で足をもつれさせた。
その傍らにぴたりと寄り添う一人の若者が、冷ややかな、それでいてどこか見下すような視線を向けた。六角家から遣わされた小姓、多田六郎である。
「猿夜叉殿、相変わらずその巨躯を持て余しておいでですな。北近江の山道では宜しくとも、この観音寺の整った街路では、その足取りは些か不格好に見えますぞ」
六郎の言葉は、身の回りの世話を焼く小姓のそれではない。監視者としての傲慢さが隠しきれずに漏れ出していた。
「面目次第もございませぬ、多田殿。何分、小谷のような険しき場所で育った田舎者ゆえ、このような華やかな街を歩くと、つい浮ついてしまいまして……。ははは、情けない限りだ」
猿夜叉は、卑屈な笑みを浮かべながら、泥のついた膝を大仰に払ってみせた。その姿は、図体ばかり大きい木偶の坊のように映る。
(見ておれ。貴殿が俺を『図体ばかりの阿呆』と見なせば見なすほど、俺の自由は増すのだ)
猿夜叉は再び歩き出し、視線を商人の手元へと戻した。彼の脳裏には、北近江の地図が鮮明に描かれている。
(楽市。これを浅井の領内でも行わねばならぬ。場所は……琵琶湖の北端、北国街道の拠点たる塩津浜か。あるいは、今はまだ湿地が広がるばかりだが、水運の利が大きい今浜か。いや、その両方だ。物資を集積し、商人の流れを掴めば、浅井は六角に頼らずとも、自ら兵を養い、鉄砲を買い揃えることができる)
それには、膨大な「銭」が必要であることを猿夜叉は痛感していた。父・左兵衛尉(久政)が執念を燃やす土塁の構築や水利の整備は、農地を豊かにする。だが、その豊かさを爆発的な力に変えるには、商業という着火剤が不可欠なのだ。
「猿夜叉殿、何をそのようにじっと店先を眺めておいでか? 珍しい物でもございましたかな」
六郎が疑わしげに問いかける。猿夜叉はわざと、店先に並んでいた色鮮やかな木綿の小裂を指差した。
「いえ、婚礼の後に梢殿へ贈る品でも……と思うたのですが、私のような無骨な男には、どれが良いのかさっぱり分からず。多田殿のような京風の目利きができるお方に、いずれ教えを請いたいものですな」
「ふん、左様ですか。婚礼の準備も結構ですが、まずは元服の儀を粗相なく済ませることですな」
六郎は鼻で笑い、先を歩き始めた。
その背中を見つめる猿夜叉の瞳から、一瞬だけ、卑屈な光が消えた。
(浅井が真に独立独歩の道を歩むためには、六角に頼らぬ独自の財源が必要だ。拠点に楽市を敷き、北国街道を手中に収め、商人の流れを掴むことができれば、浅井は真に江北の主となれる。銭があれば、鉄砲が買える。銭があれば、飢えた民を救い、精強な兵を雇える。独立を果たすための力は、戦場には無い。むしろ平時の営みの中にこそある)
市場の散策を終えた猿夜叉は、さらに西へと馬を向けた。琵琶湖を挟み、比叡山の麓に広がる延暦寺の門前町・坂本を目指すためである。しかし、湖を渡る風は刃のように鋭く、さらに冷え込みが増してきた。
「……坂本だと? この寒さの中、わざわざ出向く価値などありますまい。猿夜叉殿、私は腹の具合も芳しくない。貴殿の巨躯に付き合うては、命がいくつあっても足りませぬわ」
多田六郎は鼻を赤くし、震える手で刀の柄を握り直した。監視の熱意よりも、冬の寒さが勝った瞬間であった。
「左様ですか。それはお気の毒に。では、多田殿は一足先に城へ戻り、暖を取られるが良い。私は少々、馬を走らせてから戻りますゆえ、左京大夫様にはよしなにお伝えくだされ」
「ふん、勝手にされよ。人質の分際で逃げ出せるはずもなし。まして、御母堂様を置き去りには為さりますまい。しかし貴殿の不届き、しかと報告しておきますぞ」
監視の任を放り出し、逃げるように観音寺城の方角へ馬を向けた六郎の背中を見送り、猿夜叉は独り、坂本への道を駆けた。
(……ようやく、独りになれた)
猿夜叉は手綱を握る腕に力を込めた。直垂の下で、丸太のような腕の筋肉がミシリと鳴る。彼は坂本の入り口で愛馬を繋ぐと、一人の旅人として街へ分け入った。
坂本は、観音寺城下とはまた違う、重厚な空気が漂っていた。立ち並ぶ巨大な土倉、行き交う僧兵、そして背後に控える比叡山延暦寺の威容。ここには金融と情報の中心があった。
(ここには『銭』だけでなく、『知識』が蓄積されている。力を蓄えるには、あらゆる理を知らねばならぬ)
思考に没頭していたその時である。
角を曲がった拍子に、前方から歩いてきた小柄な人影と強くぶつかった。
「あっ……!」
猿夜叉の五尺七寸の巨躯は、鋼の如く微動だにしなかったが、ぶつかった相手は木の葉のように弾き飛ばされ、地面に転倒した。その拍子に、相手が抱えていた竹籠から、乾燥した草花と共に、数冊の書物が転がり出た。
「これは……! 申し訳ないことをした。御怪我はございませぬか」
猿夜叉は驚き、すぐさま膝をついて手を差し伸べた。先ほど観音寺で見せた卑屈な芝居ではない。生まれ持った高貴さと、強者ゆえの優しさが滲み出る、丁寧な謝罪であった。
「いえ……私の方こそ、足元ばかり見ておりました。……失礼いたしました」
控えめな、しかし凛とした声が返ってきた。そこにいたのは、猿夜叉と同じか、少し若く見える一人の僧であった。小柄で細身、物静かな佇まいだが、その双眸の奥には深い知性が宿っている。
猿夜叉は書物を拾い上げようとして、その表題に目を留めた。『春秋左氏伝』、そして『孫子』。
(ほう、医学を志す学僧と見受けたが、籠の中に忍ばせているのは兵法書か。それも、相当に使い込まれている)
叡海は慌てて書物を懐に隠し、薬草を拾い集めた。
「これらは……薬草にございますか?」
猿夜叉が敢えて問いかけると、若い僧は穏やかに答えた。
「はい。……冬を越すために必要な薬を調じようと、この坂本で求めておりました。大黄に甘草……。医学を志す身には、欠かせぬものでございます」
しかし、その澄んだ瞳は、猿夜叉の五尺七寸の体躯と、その奥に潜む「戦う者の気配」を正確に射抜いていた。
「……貴殿のような偉丈夫が、これほど丁寧に謝られるとは。坂本も、捨てたものではございませんね。私は、延暦寺の学僧、寂蓮坊叡海と申します」
叡海は微かに微笑んだ。猿夜叉は差し出した手で立たせると、言葉にならない親近感を覚えた。人質生活の中で、常に仮面を被って生きてきた彼が、初めて「同類」に出会ったような感覚であった。
「私は、北近江の猿夜叉と申す。……叡海殿。貴殿のその博識が、いつか多くの民を救うことを願っております」
「猿夜叉殿……。貴殿のその大きな腕が、いつかこの近江を、あるべき姿へ導くことを、私もまた祈っております。……いずれ、またどこかで」
互いにそれ以上の詮索はしなかった。叡海は静かに一礼すると、竹籠を抱え直して雑踏へと消えていった。
猿夜叉は、その背中が見えなくなるまで見送っていた。
(寂蓮坊叡海。……面白い。世間は広いものよ。)
夕闇が坂本の街を包み込む。
観音寺城へ戻る馬の上で、猿夜叉は来るべき元服の儀を見据え、力強く手綱を引いた。




