第四十一話:賢政の決断、叡海の献身
永禄三年(一五六〇年)・五月
愛知郡からの撤退と肥田の復興指示を終え、賢政は小谷の浅井館へと帰還した。疲労は色濃かったが、その表情には静かな充足感が漂っていた。帰還するや否や、賢政は直ちに家臣たちを集め、小谷の備蓄米を惜しみなく肥田へ運ぶよう命を下した。
「民が飢えれば、国は荒れる。六角が去った後の愛知郡を浅井の盤石な地盤とするためにも、今、民の信頼を得ることが何よりの軍備となる」
賢政の淀みのない指示に、家臣たちは若き主の広量に改めて敬服の念を深めていた。その時、静寂を破り、広間の入り口に寂蓮坊叡海が姿を現した。
叡海はいつもと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべ、賢政の前に端座した。
「新九郎様。先ほど、肥田の民への食糧放出の報を耳にいたしました」
叡海は恭しく一礼し、続けた。
「多くの武家は、戦勝の報を競い、論功行賞に血道を上げます。しかし、新九郎様は戦火に焼かれた地と、飢えに喘ぐ民を真っ先に救おうとなされた。軍事的勝利に溺れず、真に守るべきものを守る……その慈悲深きご采配に、一介の僧として、いえ、この地に生きる民の一人として、心より御礼を申し上げます」
賢政は静かに叡海を見つめた。彼にとって、叡海は常に賢政の先を行く先導者のような存在である。
「叡海殿。我らが守るのは城でも名声でもない。この地に根を張り、懸命に生きる民の営みである。それなくして、浅井の将来など望むべくもない」
叡海は一呼吸おき、その端正な顔に、これまで見せたことのない厳かな決意を浮かべた。
「新九郎様。私のような一介の僧が、この動乱の世で何ができるかと考え続けてまいりました。しかし、殿のご器量に触れ、確信いたしました」
叡海は背筋を伸ばし、深く頭を下げた。
「もし、この僧形のままでよろしければ……私の智恵も、言葉も、すべてを殿のために捧げたい。おそばに置いてはいただけないでしょうか」
広間が静まり返る。重臣たちも息を呑んで賢政の言葉を待った。僧である叡海を召し抱えることは、浅井の家臣団の中に異質な、武士とは異なる知略を取り入れることを意味する。
賢政はしばし沈黙し、叡海のまっすぐな瞳を見つめた。そこに秘められた覚悟の深さを測るかのように。やがて、賢政は穏やかに微笑み、その手を取った。
「叡海殿。貴殿の言葉こそ、今の浅井に最も必要なものだ。僧形か否かなど些細なこと。貴殿のその智恵、どうかこれからも浅井の将来のために貸していただきたい」
「……ありがたき幸せにございます」
叡海の表情に、安堵と決意が混ざり合う。
肥田城の民を救うという賢政の決断が、叡海という異形の策士を、永久に浅井の家臣として結びつけた瞬間であった。
外では、五月の柔らかな風が浅井館を吹き抜けていた。それは、若き賢政と叡海という二人の知性が、近江の新たな時代を切り拓くための、静かな、しかし確かな胎動でもあった。賢政は、信頼できる仲間を一人、また一人と増やし、戦国の荒野で一歩ずつ確実に、自らの道を固めている。




