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第四十話:肥田の泥濘、浅井の矜持

永禄三年(一五六〇年)・五月


激しい雷雨が去った後の肥田城は、泥と残骸にまみれていた。しかし、城内には安堵と、新たな主君を仰ぐ希望の空気が満ちていた。城の広間にて、浅井新九郎賢政はついに高野備前守賢信と対面を果たす。


泥に汚れた鎧姿の備前守賢信に対し、新九郎賢政は膝をついて深く頭を下げた。


「備前守殿。貴殿の命を懸けた決断により、六角の横暴を阻むことができた。貴殿の献身、断じて忘れぬ。肥田の本領はこれまで通り貴殿のものとし、安堵する」


備前守賢信は感極まった面持ちで、震える手で新九郎賢政を支える。


「新九郎様……この老骨をこれほどに遇してくださるとは。肥田の地、浅井の礎として守り抜く所存にございます」


続いて、賢政は共に控えていた遠藤喜右衛門直経、海北善右衛門綱親、そして援軍の立役者である磯野丹波守員昌を見渡した。


「丹波守、苦労をかけたな。貴殿の迅速な着陣がなければ、六角はこれほど早く崩れはしなかった」


「もったいなきお言葉。浅井の旗の下、戦える喜びは何物にも代えがたく」


五名による緊急の軍議が始まった。議題は、撤退する六角軍への追撃についてである。


喜右衛門直経がまず進言する。


「今は確かに好機。軍略の常道に照らせば、六角勢を追撃し、態勢が整う前に一当てするのも一手ではありますが…」


しかし、新九郎賢政は静かに首を振った。


「いや、ここは引くべきだ。喜右衛門、外を見よ。洪水で大地は沼と化し、街道は寸断されている。これでは軍勢を動かすことすらままならぬ。無理に追えば、我が軍の足並みも乱れ、かえって隙を見せることになる」


善右衛門綱親も賢政の意を汲み、深く頷いた。


「殿の仰る通り。今は深追いせず、六角の自壊を待つべき時。それに、懸念すべきは城下と周辺の領民にございます」


その時、丹波守員昌が沈痛な面持ちで口を開いた。


「申し上げます。肥田周辺の田畑は水攻めの影響で壊滅状態にございましょう。六角が去った後、この地の領民は飢えに苦しむことになりまする。浅井の名を近江に轟かせる好機なればこそ、ここは小谷の蔵より糧米を放出し、民を救うべきです。それこそが、六角とは違う『浅井の治世』を民に示す証となります」


賢政はその言葉を聞き、即座に決断した。


「分かった。丹波守の案を容れよう。小谷城の備蓄を惜しみなく放出しよう。民の心を得ることこそ、真の勝利だ」


賢政は再び賢信を真っ直ぐに見据えた。


「備前守、民の救済を頼む。そして、機を見て愛知郡の国人衆へ調略の使者を走らせよ。六角という古い支配が終わったことを、彼らにも肌で感じさせるのだ」


「御意! 殿の御慈悲、必ずや愛知郡の者どもの心に刻み込みましょう」


賢信の瞳には、かつての六角家臣としてではなく、浅井の将としての新たな闘志が宿っていた。肥田の地を復興させるという賢政の指針は、戦場での勝利以上に、近江全域の国人衆に対して「浅井こそが新たな主である」という無言の意図を送る事となる。


雨上がりの空から、強い陽光が差し込み、崩れた堤の跡を照らし出した。六角という大樹が倒れた跡地に、若き鷹が新たな種を蒔こうとしている。賢政は、この肥田での「勝利」が、単なる軍事的な成果ではなく、近江の領民との契約であることを確信していた。


遠藤喜右衛門直経や海北善右衛門綱親たちも、賢政の冷徹な戦術眼と、民を想う温かき心の両面に、深く心服の念を抱いた。浅井の物語は、ただの抗争から、一国の統治者としての歩みへと、その段階を変えつつあったのである。

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