第三十九話:崩れゆく六角の威光、濁流に消える野望
永禄三年(一五六〇年)・五月
天が裂け、大地が咆哮したかのような激震が走った。
先日の大雨が限界を超え、六角勢が積み上げた五十八町に及ぶ大堤防が、轟音と共に崩落した。溜め込まれていた宇曽川と愛知川の奔流は、防波堤を失い、六角の本陣を前後から蹂躙する濁流へと化した。
「堤が! 堤が落ちたぞ!」
陣中には悲鳴が響き渡り、泥水に足を取られた兵たちは武器を捨てて逃げ惑う。元来、備前守討伐という大義に納得していなかった兵たちの厭戦気分は、この瞬間に極限まで達した。水と泥、そして容赦なく降り注ぐ豪雨の中で、六角軍の統制は完全に崩壊した。
「引くな! 誰が引くことを許した! 肥田城を囲め! 備前守の小勢など、踏み潰せ!」
総大将・六角左衛門督義治は、血走った目で荒れ狂う雨の中を怒鳴り散らした。泥にまみれ、鎧を濡らした彼の姿は、もはや近江の守護としての威厳を失い、ただの追い詰められた獣と化している。
しかし、その腕を誰かが掴んだ。蒲生下野守定秀であった。老練な宿老の顔には、隠しようのない焦燥と、冷静な現状判断が刻まれている。
「御屋形様、もはやこれまで! 足場は泥濘、兵は散り散りにございます。これ以上の交戦は、六角家の主力を濁流の藻屑と変えるのみ。一刻も早く撤退を!」
「下野守! 貴様も臆したか! ここで引けば、浅井に足元を見られよう!」
左衛門督義治が激昂して振り払おうとするその背後で、父・六角義賢が静かに、しかし威圧感を持って歩み寄った。幾多の戦場を乗り越えた、古強者の目は、崩れゆく自軍の悲惨な光景と、対岸で虎視眈々と好機を窺う磯野丹波守の軍勢を交互に見つめていた。
「義治、静まれ」
義賢の声には、逆らえぬ重みがあった。
「堤が決壊した今、この地は水没する。兵を無為に失うことは、守護の役割を捨てることに他ならぬ。それに……見てみよ。対岸の磯野勢。更に後方には、浅井本隊がいるはずだ」
義賢が指さす先には、雨を突いて進軍してくる浅井本隊の気配があった。賢政自らが率いる千五百の兵が、まさにこの「水攻めの失敗」という好機を見逃すはずがない。
「……浅井新九郎は、この嵐が来ることを確信していたのだ。我らが堤を築くのを待って、この壊滅を誘った。浅井の全軍が控えておるかもしれぬ今、ここでの粘りは全軍の壊滅を意味する」
「しかし父上! 浅井如きに背を見せて、六角の威信はどうなります!」
「威信などというものは、民と家臣の命を守った後にのみ存在する!解らぬか!」
義賢は鋭く言い放つと、迷わず退却の合図を出させた。
「但馬守、下野守! 殿を任せる! 他の者は肥田城の備前守には目もくれるな! 全軍、観音寺へ退却する!この泥濘は、我らを守る盾になる。追撃はあるまいぞ!」
宿老たちは安堵の表情を浮かべ、即座に兵をまとめにかかった。六角軍の主力は、泥と水に足を取られながらも、かろうじて戦場を離脱しようと後退を始める。
左衛門督義治は、悔しさに唇を噛み締めながら、雨の向こうで不気味に静まり返る肥田城と、その背後に控えるであろう浅井賢政の軍勢を睨みつけた。
「……新九郎め。この屈辱、必ずや晴らしてやる」
捨て台詞を残し、義左衛門督治もまた逃亡の列に加わった。
しかし、六角家の軍規が崩壊し、守護の権威が雨と共に流されたこの光景は、隠し通すことはできない。肥田城の周囲に残されたのは、打ち捨てられた糧食と、泥に汚れた六角家の旗印のみ。
高野備前守賢信は、城門の上から、潰走する六角軍を冷徹に見送っていた。その背後には、磯野丹波守員昌の四百の精兵が合流を果たす。
戦国近江の力図が、この雨の一夜で劇的に塗り替えられた。
勝者は浅井新九郎賢政。しかし、これは始まりに過ぎない。この夜の「敗北」を噛み締めた六角左京大夫義賢が、次にどのような策で北近江に報復を挑むのか。雨の止まぬ肥田の地で、新九郎賢政は静かに、次なる激闘の気配を感じ取っていた。




