第三十七話:五月の雨、決壊の序曲
永禄三年(一五六〇年)・五月
佐和山城は、重苦しい湿気を含んだ風に包まれていた。
佐和山城本丸の一角で、磯野丹波守員昌は空を仰いでいた。鉛色の雲が北から垂れ込め、五月の雨は、もはや降り出す直前の、張り詰めた静寂を湛えている。そこに、鉢屋衆の棟梁である浅田玄蕃が影のごとく滑り込んできた。
「丹波守殿。六角勢、肥田城を完全包囲いたしました。左京大夫義賢様、左衛門督義治様の本陣が布かれ、その策は……『水攻め』にございます」
員昌は眉をひそめた。愛知川と宇曽川を堰き止め、高野備前守賢信の肥田城を湖の底に沈めようというのか。それは、かつて自らの代から六角を支えてきた古参の武将を葬り去る、あまりに冷徹かつ苛烈な処断であった。
「水攻めか……。だが、玄蕃。陣中の様子はどうか」
「笑止なほどに士気が低うございます。長年、六角家を支えてきた備前守殿を討つという大義名分のなさに、兵はおろか将領たちも戸惑いを隠せず、堤を築く作業も牛歩の如し。水攻めを口実に、戦を長引かせ、自然と決着がつくのを待とうという厭戦気分が蔓延しております」
員昌は鼻で笑った。
「左京大夫殿も、随分と追い詰められたものよ。自らの手で家中の古木を切り倒そうとしておる」
対して、肥田城の高野備前守賢信率いる三百の兵は、死を覚悟した籠城ゆえに、その結束は鉄のように固い。六千の六角勢が、逆に三百の孤城に翻弄されている滑稽な図式がそこにはあった。
「時が来たか。……だれぞ、早馬を走らせよ」
員昌は即座に筆を執り、浅井館の浅井新九郎賢政へ宛てた簡潔な書状を認めた。
『大魚が釣れもうした。予ての打ち合わせ通り、我らが六角勢に対します』
これが出陣の合図となる。員昌は四百の精鋭を率い、佐和山城を出陣する準備を整えた。名目はあくまで「六角家中の争いを収めるための仲介」。だが、その甲冑の下には、六角家という巨大な権威を内側から崩壊させるための、冷徹な計算が秘められていた。
「玄蕃。肥田城へ飛び、備前守殿へ伝えよ。『磯野丹波守、御味方として参る。堤が最も脆くなる時、それが反撃の合図。心安らかに待たれよ』と」
「御意」
玄蕃は一瞬で姿を消した。員昌が城門へと歩を進めると、そこには若武者、息子の辰若(後の行信)が槍を携えて控えていた。まだあどけなさが残るものの、その眼差しには武士の矜持が宿っている。
「父上。肥田の備前守殿を救い、左京大夫様の暴挙を止めるための出陣と伺っております。……浅井家のために、そして近江の正義のために。ご武運を」
員昌は愛息の肩を強く叩いた。
「辰若。これは単なる戦ではない。我らが生きる時代を、どちらに傾けるかという賭けだ。……戻ったら、土産話に六角の堤が壊れる音を聞かせてやろう」
「……堤が、壊れる?」
辰若が訝しげに問いかけるが、員昌は答えず、馬に跨った。四百の兵が、雨雲の立ち込める肥田方面へと行軍を開始する。
一方、小谷城の浅井館では、届いた早馬の報告に賢政が静かに立ち上がっていた。
傍らには、梢が静かに控えている。彼女の瞳には、夫の行く末を案じる光と、それを支える決意が宿っていた。
「丹波守が動いた。……六角は、肥田を沈めようとしておるが、自らの墓穴を掘っていることに気づいておらぬ」
賢政は静かに呟くと、広間に控える家臣団を見渡した。
「皆の者。磯野丹波守より、六角の主力が出陣したとの報せが届いた。我ら浅井家は、あくまで『高野備前守の冤罪を晴らすための仲介』を大義とし、全軍を野良田に向けて進発させる。ただし、開戦の端緒はあくまで六角側の攻撃に求める。決して浅井から兵を向けてはならぬ」
重臣たちは緊張した面持ちで頷く。賢政の策は、六角義賢が掲げる「六角の威信」という名の暴力に対し、「仲裁」という理を突きつけることで、近江中の国人衆に「六角は最早、道理を失った」と知らしめることにある。
「高野備前守は、死地で我が援軍を待っている。……あの夜、私は彼と約束した。武士の誇りを踏みにじる者に、近江の地を渡しはしないと」
賢政は愛刀に手をかけた。その瞳には、父・久政から受け継いだ領国を、自らの手で広げんとする野心と、それを裏打ちする冷静な知性が同居している。
五月の雨は、ついに降り出した。
それは、肥田の堤を押し流し、戦国の世の古い秩序を洗う雨となるだろう。
「行くぞ。近江の空気を、今日変える」
賢政の号令とともに、小谷城から千五百の兵が動き出した。磯野丹波守員昌が六角の背後を突き、賢政が正面から「仲裁」という名の刃を突き立てる。六角家という古木は、今や限界まで傾いていた。
浅井新九郎賢政は、雨に濡れる甲冑を身に纏い、若き当主としての最初の試練へと身を投じた。その背中には、近江の将来を見据える、揺るぎない覚悟があった。
肥田城を包む雨音は、やがて六角軍を恐怖に陥れる「決壊の調べ」へと変わる。歴史の歯車が、湿った五月の風とともに、劇的な回転を始めたのである。




