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第三十五話:肥田の堤と、決別の杯

永禄三年(一五六〇年)・五月


近江の平野に、六角家の軍勢が長く影を落としている。


総大将を六角左衛門督義治とし、実質的な軍配を振るう六角左京大夫義賢が率いる六千の兵が、肥田城を完全に包囲した。六角軍の陣容は盤石であった。後藤但馬守賢豊、進藤山城守賢盛、蒲生下野守定秀、布施淡路守公雄、そして「江南の旗頭」と称される山岡三郎景之。近江の名だたる将たちが居並ぶ様は、六角家の威光そのものであった。


しかし、陣中の空気は異様だった。義賢はあえて軍勢を最小限に留め、浅井への刺激を避けていた。「浅井が動けば、戦は近江全土を巻き込む。できれば賢信の首など取らず、説得で収めたい」というのが、六角家の本音であった。また、不当に京を占拠する三好への対応もあった。


包囲が完了して間もなく、使者として布施淡路守公雄が肥田城の正門へと向かった。布施公雄と高野賢信は長年の同僚である。


「備前守、城を開け…義賢様は貴殿のこれまでの忠節を惜しんでおられる。今ならば、御屋形様も処分を寛大にすると約束しておるのだ。城を明け渡し、観音寺へ詫びを入れよ!」


肥田城の主の間で、賢信は布施と向かい合っていた。布施の目は真剣そのもので、賢信への個人的な情愛と、六角家臣としての苦渋が入り混じっていた。


賢信は静かに林檎酒を二つの盃に注いだ。この林檎酒は、あの夜、賢政と交わした「決意」の象徴である。


「淡路守、貴殿の言葉は、我が耳に心地よく響く。だが、今の観音寺の空気が、かつて我らが見た六角の誇り高き場所とは別物であることは、貴殿も知っておろう?」


「……それは」


「我らは、六角という家を守るために戦ってきた。だが、今の主君にとって、我ら家臣は忠義の対象ではなく、疑心暗鬼の捌け口に過ぎぬ。淡路守、貴殿もいつか、今の我が身のようにならぬと誰が言えようか」


賢信は盃を布施に差し出した。布施は複雑な表情でそれを受け取る。


「これが、貴殿の返答か」


「ああ。我が道は、もはや六角家の外にある。……貴殿とは、戦場で敵としてまみえることになるかもしれぬな。それは、何よりも悲しいことだ」


賢信が盃を干すと、布施もまた無言で酒を飲み干した。布施の目には、薄っすらと光るものがあった。これが、二人の武士としての、最後の会話であった。


城を辞した布施淡路守公雄は、左京大夫義賢の元へ戻り、重い口調で報告した。


「……備前守に、降伏の意志なし。もはや、説得の余地はございませぬ」


その言葉を聞いた瞬間、六角義治の怒りが爆発した。


「ならば、力で屈服させるまで! 水を引け! 肥田の城ごと、備前守の首を流し去るのだ!」


義治の命により、兵たちが肥田城の周囲、五十八町にも及ぶ広大な堤の構築を開始した。宇曽川と愛知川の水を引き込み、この城を湖の底に沈めようという、「水攻め」の開始である。


包囲網の周囲で、せっせと土を積む六角の兵たち。城内の賢信は、それを見下ろしながらも、少しも動じなかった。


「……水攻めか。愚かな。今の季節、空が何と言っておるか見ておらぬのか」


賢信の背後には、浅田玄蕃を通じて届けられた、賢政からの密書があった。


『五月雨の兆しあり。堤が完成する頃、天は必ずや我らに味方する』


肥田城の攻防は、単なる城攻めから、天候を読み、運を天に託す極限の心理戦へと変貌した。六角の威信を懸けた堤が、賢信と浅井新九郎賢政の命を懸けた計略によって、崩壊の時を待っている。


空を見上げれば、季節外れの厚い雲が、じりじりと肥田の地を覆い始めていた。近江の歴史を塗り替える五月の雨は、すぐそこまで迫っていた。

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