第三十四話:観音寺の激昂、揺らぐ規律
永禄三年(一五六〇年)・四月
観音寺城の広間は、春でありながら重苦しい空気に包まれていた。
「……黙殺だと!? いち城主の分際で、この義治の問いを無視するとは!」
六角家当主・六角左衛門督義治の怒声が、石造りの城内に反響した。高野備前守賢信に対し、肥田城の管理不行き届きを咎め、釈明を求めた詰問条。しかし、期限を過ぎても返答はなく、それどころか、肥田の周辺では賢信が兵を徴用し、防備を固めつつあるという報告が次々と届いていた。
義治の顔は赤黒く充血している。元来、猜疑心の強い彼は、賢信のこの沈黙を、明白な「叛意」と断定した。
「父上! これが謀反でなくて何であるのか! 即刻、討伐軍を編成し、備前守の首を跳ねて晒しものにいたす。これを見せしめとせねば、我が六角の威令は地に落ちる!」
上座では、かつての当主・六角左京大夫義賢が、目を閉じ、深い溜息をついた。その傍らには、六宿老たちが居並んでいる。彼らの表情もまた、一様に複雑であった。
「……備前守か。左京大夫様、またその先代の弾正少弼定頼公の時代から六角の屋台骨を支え続けてきた、あの堅物が……」
老獪な宿老の一人、後藤但馬守賢豊が呟く。彼らにとって、賢信は敵ではない。むしろ、義治の放蕩や無謀な粛清に振り回されながらも、腐りかけた六角家を支えようと孤軍奮闘してきた数少ない「良心」であった。今の六角家にある閉塞感に一番苦しんでいたのは、他ならぬ賢信であったろうと、皆が心の中で理解していた。
しかし、左京大夫義賢は重々しく口を開いた。
「備前守に同情の余地がないとは言わぬ。あやつが近頃の観音寺の空気を疎ましく思うていたのも承知しておる」
義賢の言葉に、義治が「ならば!」と声を荒らげようとするのを、父は鋭い視線で制した。
「だまれ義治⋯⋯」
左京大夫義賢は、深い溜め息をつき、続ける。
「だが、佐々木源氏直系である、我が六角家の威信は、個人の思惑よりも重い。もし、肥田城の反抗を放置すれば、他の国人衆もこぞって離反を画策するだろう。今の六角家に、これ以上の混乱は許されぬ」
宿老たちも沈黙のまま、深く頷いた。彼らもまた、賢信を個人的には惜しんでいる。しかし、家臣団の規律を維持するためには、いかなる理由があろうとも、主命に背く者は排除せねばならないという、冷徹な戦国の理を共有していた。
「父上……」
義治は、父と宿老たちが自分に同調したことに、歪んだ笑みを浮かべた。
「御意にござる。では、即座に軍を進める。近江守護の威光、北近江の者どもに思い知らせてやる!」
観音寺城の軍議は、短時間で決定を見た。高野備前守賢信という、六角家の伝統そのもののような男を断罪するための軍勢。それは、六角家にとっての「最後の良心」を切り捨てる行為でもあった。
その頃、肥田城の賢信は、静かに鎧を着込んでいた。
観音寺から軍勢が発せられたという情報は、既に浅田玄太の手引きで知らされていた。彼は観音寺の方角を静かに見つめ、長く深い一礼をした。
「弾正少弼様、左京大夫様……申し訳ございませぬ。今の六角家では、御二人がお守りになろうとした『名誉』は、もう風に舞う塵に過ぎませぬ」
そして、彼は城下の兵たちへ向け、短く、しかし熱い檄を飛ばした。
「我らは叛逆を望んだわけではない! ただ、武士としての誇りを守るため、浅井家の助力を仰ぐ! 共に理を求めて立ち上がろうぞ!」
兵たちの怒号が、春の空に突き刺さる。
六角家を飲み込むための歯車は、義治の激昂によって、ついに回り始めた。浅井賢政が待つ北近江へ、運命の濁流が流れ込もうとしていた。




