第三十三話:家督譲渡、春の嵐を呼ぶ評定
永禄三年(一五六〇年)・四月
小谷城下には、高野備前守賢信からの密使が届いていた。そこには、六角家臣としての忠義の終焉と、浅井への帰順を誓う覚悟が、重々しい筆致で記されていた。
小谷館の大広間には、当主・左兵衛尉久政、新九郎賢政、そして
一門衆と遠藤喜右衛門ら重臣が居並んでいた。肥田城の決断という未曾有の報に、一門の長老たちは動揺を隠せない。しかし、当の久政は、驚くほど静かな表情で書状を畳んだ。
「新九郎。お前の賭けは、見事に当たったようだな」
久政は低い声で言った。
「高野備前守は肥田の主。この寝返りが露見すれば、六角左京大夫義賢も黙っておるまい。近いうちに六角軍が肥田へ向けて進発するは必定。浅井家は、いよいよ六角との対立という火の中に身を投じることになる」
賢政は居住まいを正し、力強く答えた。
「覚悟の上です。高野備前守殿には、既に策を伝えてあります。我らはあくまで『高野備前守殿への不当な問責を不服とし、六角家臣として仲裁を求める。まして浅井と通じるなどという理由はもってのほか。我ら浅井の忠節すら疑うのか』という大義名分を掲げます。軍を急進させれば、それは謀反と見なされますが、仲裁であれば正当な交渉。六角側が軍を差し向けて初めて、我らは『防衛』のために刃を抜く。これにより、近江の諸国衆に対し、我らの正義を示すことができましょう」
久政は満足げに頷くと、広間を見回した。
「皆、聞いたか。高野備前守を見捨てぬという姿勢こそが、後の浅井家を支える『義』となる。丹波守、そなたに命ずる。佐和山城にて速やかに兵を整えよ。ただし、小谷からの合図があるまでは、決して出陣せぬこと。六角が動くのを待て」
「はっ!承ってございます!」
磯野丹波守員昌が深々と頭を下げる。
その時である。久政は重い腰を上げ、一門衆の前に進み出た。
「皆の者。今日この評定をもって、儂は当主の座を退く」
広間が騒然となった。久政は迷いのない眼差しで、我が子・賢政を指し示す。
「賢政。お前が肥田の夜に見た景色、そして今、高野備前守と共有した覚悟。それはもはや、儂の代の浅井には収まり切れぬ広がりを見せている。これからの戦は、古いしがらみを知らぬ、新しい時代の指導者が背負うべきものだ。……賢政、後は頼んだぞ」
「父上……」
賢政は、父の背中に十年という歳月をかけた深い慈愛と、家を託す決意を感じた。重臣たちも、最後には一斉に頭を垂れる。浅井家はここに、若き新当主・賢政の元で、六角家に抗するための本格的な軍事態勢へと移行した。
作戦は精緻を極めていた。浅井は「あくまで六角家中のいざこざの仲裁者」という立場を崩さない。六角の先代・左京大夫義賢が、若き当主・左衛門督義治を諌め、軍を引かせるのが本来の筋道であるが、高野備前守を排除したい義治は、強引に軍を北上させるだろう。その時、理を失ったのは六角家となり、浅井の反撃には、近江の国人たちも「正当な防衛」として心を寄せるはずである。
評定を終え、賢政は館の庭へ出た。春の嵐が遠くで鳴り響いているような気がした。
高野備前守賢信は、肥田城で六角からの使者を待っている。その手には、主君への最後の諫言と、浅井への忠誠の誓いが握られていることだろう。
「備前守殿、準備は万全か」
賢政が独りごちると、風がふわりと春の香りを運んできた。それは、北近江から近江全土を覆い尽くす、変革の嵐の予感であった。浅井新九郎賢政、十五歳。若き当主は、父から受け継いだ小谷の地で、六角家という巨大な牙城を崩落させるための、最初の、そして最も重要な糸を引いたのである。




