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第三十一話:肥田の春、命を懸けた直談判

永禄三年(一五六〇年)・三月下旬


桜の蕾がようやく膨らみ始めた近江路を、二人の影が駆け抜けていた。


一人は、浅井家が誇る鉢屋衆の棟梁、浅田玄太。もう一人は、質素な旅装束に身を包んだ浅井賢政その人であった。


本来、他家の重臣を調略するための使者であれば、家臣が密書を携えて赴くのが戦国の定石である。しかし、賢政は浅井館での評定の場において、父・左兵衛尉久政をはじめとする重臣たちの猛反対を強引に跳ね除けていた。


「使者ごときに備前守賢信殿の心が動くはずがない。私が直接会い、我が言葉で彼の矜持に訴えかける。これは私の戦いだ」


そう言い放ち、一門衆や重臣たちの懸念を「若殿の無鉄砲」と呆れられながらも、単身での潜入を強行したのである。


肥田城は、愛知郡の要衝に位置する堅城であった。浅田玄蕃の手引きにより、賢政らは夜陰に紛れて城門を越え、高野備前守賢信の居館へと滑り込んだ。玄蕃(玄太)が影のごとく周囲の警備を無力化し、賢政はついに、主の間で独り静まり返っていた高野備前守賢信の前に姿を現した。


「……誰だ。夜更けに忍び込むとは、何者か」


賢信は手近に置いた太刀に手をかけ、鋭い眼光を放った。賢政はゆっくりと笠を脱ぎ、偽りのないその顔を露わにした。


「浅井新九郎賢政にございます。備前守殿に、どうしてもお話したきことがあり、参上いたしました」


賢信の表情が驚愕に歪んだ。彼は数秒間、言葉を失ったのち、やがて呆れたように鼻で笑い、太刀から手を離した。


「……狂気か。小谷の跡取りが、単身敵地へ乗り込むとは。貴殿は死ぬのが怖くないのか、それとも六角の警備を子供の遊びと侮っているのか」


賢信はやおら立ち上がり、信じられぬものを見る目で賢政を凝視した。


「貴殿の身に万が一のことがあれば、浅井家は即座に崩壊し、当方はその罪人として六角より追討される。貴殿は、自分の命だけでなく、我らの命も預かってここへ来たのだぞ」


「承知しております。ですが、書状の一通や伝令の言葉で、備前守殿のような烈士の心を動かせるとは思えませぬ。私の誠意を、この命の重みを持って示すしかないと考えたのです」


賢政は懐から、一瓶の林檎酒を取り出し、床に置いた。芳醇な香りが、緊張した主の間に広がる。


「これは、我らの地の林檎酒です。備前守殿、貴殿が六角右衛門督義治殿の今のやり方に、深い憤りを抱いておられることは知っております。親父殿の代から続く忠義が、一人の若者の猜疑心によって踏みにじられる……それは貴殿にとって、耐え難い屈辱ではございませぬか」


賢信は沈黙した。図星を突かれた苛立ちと、若き賢政のあまりの無謀さに対する困惑が、彼の心の中で渦巻いている。


「貴殿の武名は、湖北にまで届いております。六角の看板を背負う貴殿に、このようなことを持ちかけるのは厚顔無恥と承知。ですが、今の六角はかつての栄光を失い、内側から腐り始めております。私は、貴殿のような武士の『誇り』が、無意味な粛清で散らされるのを座視したくないのです」


「……若造め」


賢信は賢政の目の前まで歩み寄り、その若き瞳を覗き込んだ。そこには野心だけではない、不思議な透明さと、他者を信じようとする純粋な狂気が宿っていた。


「貴殿は、俺を六角から連れ出し、浅井の軍門に降らせようと画策している。だが、俺が今、ここで貴殿を斬り、その首を観音寺へ送れば、俺は六角家における最高の功臣となる。……なぜ、そのような賭けに出た」


「あなたが、そのような真似をする男ではないと、信じているからです。高野備前守賢信という武士は、己の利よりも、道義を選ぶ男だと……私の直感がそう告げております」


賢信は再び大きく息を吐き出し、膝から崩れるように笑い始めた。怒りではない。己の命を懸けてまで、敵国の領主を説得しに来たこの若者の「器」に、呆れつつも、心の奥で何かが火を噴いたのである。


「……命知らずにも程がある。貴殿の首を取れば、浅井は明日にも瓦解する。その重さを、貴殿は理解していない」


「理解しております。だからこそ、今ここで備前守殿に賭けているのです」


賢政は深く頭を下げた。肥田城の夜は静まり返り、外では浅田玄蕃が微かな気配も立てずに護衛を続けている。賢信は、置かれた林檎酒を手に取ると、栓を抜き、無造作に盃に注いだ。


「毒が入っているかもしれぬな」


「貴殿の命を奪う毒であれば、私が一番に飲まねばなりません。……私が飲んだ酒です。ご安心を」


賢信はその酒を一口啜り、深く頷いた。窓の外には、春の予感を含んだ風が吹き抜けている。


「……貴殿の、その呆れた無鉄砲さ。左兵衛尉殿も苦労されるわけだ。分かった、賢政。貴殿の命、預かってやろう。ただし、六角と縁を切るには、もう少し時が必要だ。貴殿のその命に恥じぬ働き、いずれ近いうちに見せてやる」


「……感謝いたします」


賢政が顔を上げると、賢信は初めて、武士らしい温かな眼差しで微笑んだ。一触即発の夜は、こうして一人の野心的な若者と、誇り高き将領の絆によって、静かに幕を下ろした。

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