第三十話:春の芽吹きと、禁忌の策
永禄三年(一五六〇年)・三月
雪解け水が小谷の谷間を勢いよく駆け抜け、木々がわずかに色づき始める季節となっていた。
浅井新九郎賢政は、供の者をわずかに連れ、小谷城下の北に位置する山中の隠れ里を目指していた。かつて自らが招き入れた奇才、僧・寂蓮坊叡海が身を置く場所である。以前、賢政が提案した材木輸送のための河川整備計画は、春の増水と地形の険しさゆえに難航を極めていたが、叡海が別の提案として着手した薬草園は、驚くべき速さで芽吹きを見せていた。
「叡海殿。見事なものだ」
賢政が山肌の斜面に広がる緑を眺めて感嘆の声を上げると、粗末な小屋から現れた叡海が、僧衣の裾を払って静かに合掌した。
「すべては新九郎様の先見の明にございます。この地は日当たりと湿度が絶妙で、薬草の生育には天賦の地。……材木の件は、もう少し雪解けを待たねばなりませぬが、薬草の方はこの分であれば、夏前にはかなりの蓄えとなりましょう」
「感謝する。浅井の民にとって、これほど心強い備えはあるまい」
賢政は心から礼を伝えた。叡海の静かな知性は、荒ぶる戦国の気風の中で、賢政にとって安らぎであり、同時に鋭い助言者でもあった。しかし、賢政はこの日、単なる報告だけを胸に訪れたのではなかった。
しばしの歓談の後、賢政は周囲に誰もいないことを確かめると、視線を少し落として切り出した。
「叡海殿。実は、かねてより胸に刺さっていた棘がある。……六角家の愛知郡、肥田城主・高野備前守賢信殿のことだ。あの御仁を六角から引き剥がし、我が浅井の盟友として迎え入れるには、いかなる手が良かろうか」
その言葉に、それまで冷静さを保っていた叡海の表情が、驚愕に凍りついた。彼は周囲を慌ただしく見回し、賢政に詰め寄るように声を潜めた。
「……新九郎様。今、なんと仰いましたか。高野備前守殿の調略など、六角家にとっては最大の禁忌。それを、未だ浅井の家臣ですらない、一介の僧侶に話されるなど……迂闊が過ぎますぞ」
叡海の青ざめた表情を見て、賢政は快活に笑い声を上げた。
「迂闊かな。だが、不思議なものだ。誰にも言えぬ重圧を抱えているとき、ふと、貴殿にだけは話しても良い気がした。この胸の奥にある熱いものを、叡海殿という冷徹な鏡に映してみたかったのかもしれぬ」
「……鏡、ですか。あまりの無防備さに、かえって恐ろしくなります」
叡海は深い溜息をつき、座り込んで瞑目した。しばらくの沈黙の後、彼は苦笑しながらゆっくりと目を開いた。賢政の放つ得体の知れない魅力――それは、時に人を破滅へ導き、時に英雄へと押し上げる、危険な資質であった。
「かないませんな。……承知いたしました。高野備前守殿の調略、それが六角の内政を完全に崩壊させる『鍵』であることは、拙僧にも分かります。……ならば、力ずくではなく、彼の『誇り』を突くのです」
叡海は杖を土に突き、論理を組み立て始めた。
「高野備前守殿は、六角家の古参。今の右衛門督義治殿のような若造に、父祖の代からの忠節をないがしろにされることを、誰よりも憎んでおられるはず。……正面から誘えば、武士の義理に阻まれます。しかし、偽りの『主君からの粛清宣告』を見せられたらどうでしょう」
「偽りの粛清宣告、か」
「そうです。近頃観音寺で流れる噂と組み合わせます。六角の一部の重臣たちが、高野備前守殿を排除するために、義治殿の偽判を使って彼を追放しようとしているという偽情報を、密書として彼の元へ届けるのです。それも、浅井の者が届けるのではなく、六角家の別の重臣の家人を装って⋯」
賢政は耳を傾け、頷いた。
「なるほど。彼は孤立感に苛まれ、六角の将来に絶望する。そこへ、我ら浅井から『六角に捨てられた貴殿を、我らは正当に遇したい』と手を差し伸べるわけか」
「左様。ただ、もう一手必要です。彼の領地である愛知郡肥田城を、浅井は一切侵さぬという確約。それも、久政殿ではなく、新九郎様が個人的に書き記した誓約書を。彼は『六角の主君』には絶望しても、『次代の英雄の器』には希望を見出すでしょう」
叡海の策は、単なる裏切りを誘うものではなく、相手の心情を深く読み解いた心理戦であった。高野備前守という人物の、武士としての矜持と、六角家の現状への苛立ちを、見事に利用しようというのである。
「叡海殿、素晴らしい。これならば、彼の誇りを傷つけずに、我らの方へ引き寄せる道が拓ける」
賢政の瞳に、勝利への確信が灯る。叡海は、その瞳を見て、改めて自分が恐ろしい主に仕えようとしているのだと悟った。しかし、それ以上に、この若者の歩む道の先を見てみたいという好奇心が、僧侶としての規律を凌駕していた。
「新九郎様。この策、成功すれば浅井は六角の喉元に刃を突き立てることになります。しかし、失敗すれば、高野殿は憤死し、六角の結束は逆に固まるでしょう。……これより先は、新九郎様ご自身の『運』と『人を見る目』にかかっております」
「分かっている。叡海殿の知恵に恥じぬ働きをしてみせよう」
賢政は清々しい顔で立ち上がった。山中の小さな隠れ里に吹く風は、いつしか冬の冷たさを失い、春の予感を含んでいた。この賢政の軽率とも言える率直さが、叡海という鋭い知性を完全に懐柔した瞬間であった。
小谷に戻る賢政の足取りは軽く、その背中には、近江の覇者となるための覚悟が宿っていた。叡海はその後ろ姿を、まるで嵐に向かう若武者を見守るかのように、長く、じっと見つめていた。
「……乱世を生くるとは、あれほどの危うさを纏うことか。……まあ良い。この身も、あの若者の物語の傍観者でいるには、少々退屈しすぎたようだ」
叡海は独り言を呟くと、薬草園の若い芽を愛おしげに手入れした。浅井館への帰路、賢政は心の中で高野備前守との対面を想像していた。林檎酒を手にし、誇り高き古参の武将と、どのような言葉を交わすべきか。
春三月。浅井家の水面下では、六角家を崩壊させるための毒と蜜が、静かに、しかし確実に熟成されようとしていた。賢政が叡海に託した信頼は、もはや単なる主従の関係を超え、近江の歴史を動かす不可分な結びつきへと進化していたのである。




