第二十九話:実西庵の慈愛、林檎酒に託した願い
永禄三年(一五六〇年)・二月。
小谷を覆っている雪。未だ、春の足音が遠い冬の最中。浅井館を訪ねてきたのは、小谷城の南、平塚村の庵に住まう実西庵であった。
彼女は久政の実の妹であり、出家の身ながら、かつては館の庭の桜を片手で揺らしたとも伝えられる五尺八寸(百七十六センチ)、二十八貫(百五キロ)という圧倒的な体躯の持ち主である。しかし、その豪胆な外見とは裏腹に、彼女の心は淡海の湖水よりも深く、穏やかな慈愛に満ちていた。
門番がその威風にたじろぐ中、実西庵は館の奥へと導かれた。
「兄上、お久しゅうございます。姉上様も、健やかそうで何より」
実西庵が頭を下げると、その重量感で畳がわずかにたわむ。久政は妹の顔を見ると、政務の疲れを忘れたかのように柔和な笑みを浮かべた。
「実西庵、また一段と貫禄が増したな。庵の暮らしはどうだ。不自由はしておらぬか?」
「ええ、平塚の皆さんが良くしてくださるので。それより兄上、お顔色が優れませぬ。……少し、肩の荷を降ろす時間も必要ではございませぬか」
実西庵は心配そうに久政の顔を覗き込むと、抱えていた大きな葛籠を解いた。中から現れたのは、磨き上げられた数十本の瓶である。
「林檎酒でございます。冬の間に、皆で大切に醸しました。甘やかな香りが、きっと兄上のお心を解きほぐしてくれるはず」
広間に林檎の芳醇な香りが満ちる。
「……美味いな。甘みの中に、芯のある強さを感じる」
久政が満足げに杯を干す。小野殿も嬉しそうに盃を手に取った。
「まあ、見事な黄金色。実西庵様のお心遣い、ありがたく頂戴いたします」
家族の穏やかな談笑が続く。そこには戦国の冷徹な駆け引きも、六角家との危うい情勢も存在しない。ただ、兄を、甥を案じる慈しみが流れていた。実西庵は賢政の方を向き、その大きな手で優しく肩を叩いた。
「新九郎殿、お前もまた、重い荷物を背負いすぎです。たまにはこうして、家族で酒を酌み交わす余裕をお忘れなく。先ずは心身を潤しなさいませ」
実西庵は賢政に酒を勧めると、幼い頃の賢政が庵に遊びに来た際に、木登りをして落ちてきた武勇伝を語り出し、久政と声を上げて笑い合った。その姿は、政治の嵐の最中にいることを忘れさせるほどに和気あいあいとしたものであった。
その言葉に、賢政は思わず苦笑した。
「叔母上、お気遣い痛み入ります。……ですが、この林檎酒の香り、ただの酒にするには惜しいほどに芳醇です。もともと、小谷の名産にと期待していましたが、これは想像以上です。浅はかでございました。しかし、ある考えが浮かびました」
賢政は、この上質な酒を、敵対・警戒する勢力――六角、朝倉、織田へ贈る外交の手段にすることを提案した。
「六角右衛門督義治殿には湖北の野趣として。朝倉左衛門督義景殿には越前の食通を唸らせる手土産として。そして織田弾正忠信長公には親愛の先触れとして」
賢政の突拍子もない提案に、久政は目を丸くし、実西庵は微笑みを向ける。
「林檎酒を使い、腹の中を覗こうというわけですか」
「左様でございます。酒は心を解く働きがありまする。左衛門督義景殿、右衛門督義治殿が噂に踊らされている今、この酒を届けることで『浅井は戦を望んでおらぬ』という偽りの安堵を植え付けます。弾正忠信長公には、我らが単なる田舎大名ではなく、侮れぬ相手であり、頼むに足る勢力であることを知らしめたい」
久政は感心し、実西庵もその賢政の才覚を誇らしげに目を細めた。
「まあ、新九郎殿らしい。戦ばかりではなく、香りと味で人の心を解こうというのですね。……承知いたしました。私の庵の蔵にある分も、すべてお役立てください。ですが新九郎殿、どうか忘れないでくださいね。酒は、誰かを傷つけるためではなく、人と人とが繋がるためにあるものだということを」
実西庵の言葉には、力強い優しさが宿っていた。賢政は、その温かな助言を深く胸に刻んだ。
「叔母上、お言葉、肝に銘じます。この酒は、戦の毒を流すための清めの水として使わせてもらいます」
実西庵は満足げに頷くと、また一つ盃を傾けた。その豪快な飲みっぷりと、溢れんばかりの母性が、張り詰めていた館の空気を浄化していくようであった。
帰路に就く実西庵を見送る賢政の背中を、未だ凍てつく冬の風が引き締める。
織田信長を驚かせ、六角義治を油断させ、朝倉義景の警戒を解く。賢政の外交手腕は、単なる知略を超え、叔母である実西庵の慈愛という名の「武器」を纏い、静かに、しかし着実に北近江の勢力図を塗り替えようとしていた。




