第二十八話:雪下の賀詞、小谷の絆
永禄三年(一五六〇年)・一月
小谷城下は深い雪に閉ざされていたが、城内には新春を祝う柔らかな灯火が揺れていた。尾張からの使者・丹羽長秀の来訪から一ヶ月。浅井家を取り巻く情勢は、表面上は穏やかでありながら、その内側では嵐の前の静けさのような緊張を孕んでいた。
浅井館の大広間には、上座に浅井左兵衛尉久政と、その正室である小野殿が居並んでいる。南近江の観音寺城へ人質として送られている田屋石見守明政の安否、そして六角家との危うい均衡――そのような陰鬱な情勢をあえて遠ざけ、今日この日ばかりは一門・重臣らが揃い、浅井家の平穏を祈念する宴が催されていた。
雅な楽の音に包まれる中、襖が静かに開かれた。
現れたのは、嫡男である浅井新九郎賢政と、その妻である梢であった。二人は揃って座敷の真ん中で深々と頭を下げる。
「父上、母上。本年も健やかに迎えられましたこと、何よりに存じます」
新九郎賢政の声は、以前よりも深みを増し、武将としての逞しさを宿していた。その隣で、梢もまた控えめに、しかし凛とした佇まいで礼を述べる。小野殿は、愛息である新九郎賢政と、その傍らに寄り添う梢の睦まじい姿に目を細め、穏やかな微笑みを浮かべた。
「新九郎殿、梢殿。今年もこうして家族揃って顔を見られたことが、何よりの祝いにございます。……夜は毎日冷え込みます。お二人とも、あまり無理をなされませぬよう」
小野殿は、政治的な難局や六角家との緊張については一切口にしない。彼女が案じるのは、ただただ、若き夫婦の心身の健やかさと、二人の絆の行く末のみであった。
「母上、ご心配には及びませぬ。梢も私も、こうして無事でおりますゆえ」
賢政が答えると、梢がふわりと微笑んだ。
「母上様、お気遣いありがとうございます。新九郎様は、近頃は城下の様子を見回り、民の暮らしにも気を配っておられます。私は、ただ新九郎様が心穏やかでいられるよう、務めさせていただいております」
上座の久政は、そのやり取りを無言で眺めながら、酒盃を傾けていた。その眼差しは、息子を厳しく律しつつも、一人の武将として成長した賢政を見守る確かな重みがあった。
「……新九郎」
久政が、低い声で名を呼んだ。その一言に、広間の空気が引き締まる。
「今年もまた、直に春が来る。……南近江の大殿様のことは、儂も常に気にかけておる。あの方は我が家にとって大切な存在だ。六角という大国の中で、今も耐えておられると思うと、胸が塞がる思いだが、今は我らも耐える時ぞ」
賢政は真っ直ぐに父を見据えた。
「父上。大殿様が人質として観音寺にある限り、我らの動きには制約がございます。しかし、六角家の内紛はもはや止まらぬ所まで来ております。その機を逃さず、必ずや大殿様をお連れ戻しいたします」
久政は、酒杯を持つ手を止め、
「……そうか。そうだな新九郎。お前が言うとおりよ。新七郎も師である大殿様を案じておるわ⋯⋯。いまひとつ問う。尾張の信長という男は、国友筒を贈った頃の無鉄砲さとは別の、得体の知れぬ『飢え』を抱いている。その男と誼を作る事は、浅井という家を、もはや二度と元の安全な隠れ家には戻せぬということだ。……お前は、その覚悟ができているか」
新九郎賢政は真っ直ぐに父を見据えた。
「覚悟、と申せば、父上こそ十年前に国友筒を信長公に贈られた時から、既にこの道は見えておいでだったのではございませぬか。私は、今の浅井家を、大国の影に怯えるだけの小領主のまま終わらせるつもりは毛頭ございませぬ」
久政はそれ以上のことは語らなかった。今はまだ、小野殿や梢の前で、血生臭い戦略を語る時ではないと分かっているのだ。
宴が一段落すると、賢政と梢は上座を辞し、少し離れた廊下へと出た。
城の廊下には、外の雪を反射した青白い光が差し込んでいる。梢がそっと賢政の袖を引いた。
「新九郎様。……お義父様も、お義母様も、お二人の心の内には、言い知れぬ重圧があるようでございますね」
賢政は、愛する妻に優しい微笑みを向ける。
「そうだな、梢。母上は我らの幸せを案じ、父上は浅井の未来を背負っておられる。……俺は、その両方の重みを知りながら、己の行くべき道を選ばねばならぬ」
賢政は窓を開け、寒々とした淡海を見た。その向こうには、疑心暗鬼に飲まれゆく六角家の観音寺城がある。
「梢。俺がこれからしようとしていることは、おそらく浅井家を大きな戦の渦中へと突き落とすことになる。それでも、お前は俺についてきてくれるか」
梢は、迷いなく力強く頷いた。
「新九郎様と共にあること。それが私のすべてでございます。どんな戦の渦中でも、私は新九郎様のお傍におります」
その言葉に、賢政は胸の奥の熱いものが込み上げるのを感じた。
遠藤喜右衛門や、鉢屋衆の玄蕃が影で動く中、自分には、こうして変わらぬ絆がある。それだけで、賢政は自分が覇道へ踏み出すための強さを得た気がした。
父・久政から継承すべき重圧と、母・小野殿から受け継ぐ慈愛。その狭間で、賢政は感じていた。この正月が、浅井家にとって穏やかに過ごせる最後の季節になるかもしれないと。
「行こう、梢。……身体を冷やしてはならぬ。」
賢政の足取りは力強く、冬の寒さをものともしない。小谷の静かな夜は、遠からずやってくる激動の春を予感させながら、深く、そして厳かに更けていった。




