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第二十六話:使者、尾張より来たる

永禄二年(一五五九年)・十ニ月


北近江には本格的な冬の足音が響き始めていた。小谷城下は、遠藤喜右衛門と浅田玄太による「噂の工作」が功を奏し、六角家内部の疑心暗鬼が頂点に達しようとする中で、奇妙な静寂に包まれていた。


そのような状況下、一人の若武者が北国街道を駆け、浅井館の門を叩いた。尾張織田家の家臣、丹羽五郎左衛門尉長秀である。


浅井館の大広間、重厚な構えの座敷に、浅井左兵衛尉久政と浅井新九郎賢政が並んで座す。二人の前で、丹羽五郎左衛門尉長秀は涼やかな面持ちで一礼した。


「尾張、織田家の使者として参いりました、織田弾正忠信長が家臣、丹羽五郎左衛門尉長秀と申します」


端正な顔立ちの中に宿る知的な光と、若武者らしからぬ落ち着きに、新九郎は目を見張った。五郎左衛門尉は本題に入る前に、まずは織田家がこの小谷へ使者を送った真意を、包み隠さず語り始めた。


「……本来、当家は美濃の斎藤(一色)義龍と対峙しております。にも、かかわらず東⋯駿遠三の太守、今川の動きが不穏にございますれば、戦力を分断させる余裕はございませぬ。定石に従えば、尾張の向背に位置する、斎藤(一色)と盟約を結ぶべきでございましょう。しかし、義龍は信長公の義父・斎藤道三様を殺めた仇敵。盟約など、あり得ぬ話にござる」


長秀はそこで一度言葉を切り、静かに新九郎を見つめた。


「信長公は、美濃の牽制のために北近江を治める貴殿らの力を必要としておられます。……実は某、この小谷に参る前、観音寺城へ立ち寄ってまいりました。六角右衛門督義治殿に謁見いたしましたが、あの方は当方の言葉を『適当な挨拶』として流すばかり。親交を深める相手にあらずと判断し、早々に退去いたしました」


広間がざわめく。六角家の当主を、これほどまでに公然と低く評価する使者は初めてであった。しかし、新九郎はその率直さに、かえって武人としての清々しさを感じていた。以前、父・久政に教えられた国友筒の話から、信長という男は既存の概念に縛られず、実利を尊ぶ傑物であると認識していたからだ。


「丹羽殿。その率直さ、吝かではない。して、織田様は何を求め、我が浅井に何を望まれる」


「某が六角を捨て、わざわざ険しい冬の北近江まで足を運んだ理由、それは貴殿らこそが、今この乱世で『己の力で道を切り拓こうとしている勢力』だと確信したからにござる。美濃の一色家を牽制し、当方の背後を盤石にするために、貴殿らの武勇を貸していただきたい。観音寺で流れる噂⋯あれは浅井様にございますな。己が足で立つためには、必要な事でございます」


長秀の言葉は淀みなく、論理的であった。しかし、策を見破られた、浅井左兵衛尉久政は眉をひそめる。五郎左衛門尉長秀の探りには、黙秘せねばならない。


「新九郎。六角家を差し置いて尾張と手を組むは、いかなる火種を招くか分からぬ。慎重であるべきだ。今、六角様は我らを疑い始めている。これ以上の疑いを招くは危険が過ぎる」


父・久政の懸念は、もっともである。六角との関係は、噂によって危うい均衡の上に成り立っている。更に、表面上は浅井は未だ六角に臣従しているのだ。そこに織田という第三者が介入すれば、その均衡は一気に崩れ去る。


しかし、新九郎は首を横に振った。


「父上。……この丹羽殿のような才ある人物と縁を結ぶことは、浅井の未来にとって決して損にはなりませぬ。右衛門督様が我ら浅井を敵と見なす事は無いでしょうが、万が一、我らが窮地に陥った場合⋯織田様のお力は、我ら浅井にとって無駄にはなりませぬ」


新九郎は、丹羽長秀という男の知性に、浅井家の未来を重ねていた。いつまでも六角家の軛の下に甘んじていることに、新九郎は物足りなさを感じていたのだ。長秀は新九郎の視線を受け止め、さらに言葉を重ねる。


「浅井新九郎様。某は六角右衛門督義治殿のような、名ばかりの権威に縋るお方には興味がありませぬ。我らが主君・信長公は、己の力で道を切り拓く者を愛されます。今、北近江が自立の狼煙を上げれば、尾張もまた、それに応えるだけの力をもって連帯いたしましょう」


その言葉には、ただの外交辞令ではない、魂の共鳴があった。新九郎は立ち上がり、久政の前に膝をついて説得にかかる。


「父上。信長公は紛うことなき傑物。尾張は早晩、大きな飛躍を遂げましょう。その時、真っ先に手を組んだ国が、どこになるか。それは必ずや、後の浅井家を支える大きな後ろ盾となります」


久政は、嫡男の熱のこもった言葉に、かつての自分を見た。若い時代の勢い。そして、情勢を見極める非凡な目。父は溜息交じりに頷いた。


「……新九郎。お前がそこまで言うのならば、よい。丹羽殿、貴殿の誠実さ、しかと受け取った。だが、我らは六角様に臣従する身。そこもとなら理解されようが、表立って動くわけにはいかぬ。水面下で、織田家との絆を深めていくことといたそう」


長秀は恭しく頭を下げた。


「御意に。信長公も、貴殿らのような義に厚い方々との同盟を望まれるはず。これは、北近江と尾張の新しい時代の始まりにございます」


外では雪が落ち始めていた。しかし、小谷城の大広間には、冷たい雪とは対照的な、熱い未来への予感が満ちていた。丹羽五郎左衛門尉長秀という知恵者との出会いは、浅井新九郎にとって、単なる外交以上の意味を持っていた。それは、既存の秩序が終わりを告げ、新たな戦国という海へ漕ぎ出すための、最初の帆であった。


長秀が小谷を去った後、新九郎は遠藤喜右衛門を呼び寄せた。


「丹羽殿は、俊英であった。これより、尾張との連絡網を極秘裏に構築せよ。六角が自滅するその日に備え、我らは自らの足で立たねばならぬ」


「御意」


喜右衛門の鋭い眼差しが、雪の向こうの尾張の空を見据える。六角家の疑心暗鬼、朝倉家の停滞、そして織田家との同盟の兆し。すべてが、浅井家という名が近江全土に轟くための伏線となっていく。


雪の降る中、浅井館から見る近江の景色は、もはや六角の領地ではなく、新九郎が切り拓くべき新世界に見えていた。浅井家は、その長い忍従の夜を終え、ようやく夜明けの光を手にしようとしていた。

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