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第二十五話:噂の種火、観音寺と一乗谷を揺らす

永禄二年(一五五九年)・十一月


浅井館の奥まった一室で、浅井家の命運を賭した軍議が続いていた。


浅井左兵衛尉久政は、上座で無言のまま目を閉じている。その隣で、嫡男の浅井新九郎が、静かな闘志を宿した瞳で遠藤喜右衛門を見つめていた。この策の主唱者である浅井与次も、満足げにその光景を見守っている。


「喜右衛門。お主にすべてを預ける。鉢屋衆を使い、六角右衛門督義治の心に、消えぬ疑心暗鬼の種を植え付けるのだ」


左兵衛尉久政の命に対し、遠藤喜右衛門は深く頭を下げた。


「御意。観音寺城下を混乱させ、右衛門督義治が自ら重臣たちを疑い、粛清へと向かうよう仕組んでみせまする」


直経はすぐに城を立ち、城下の旅籠「浅田屋」へと向かった。そこには、浅井家の鉢屋衆棟梁である浅田玄太――影の呼び名・玄蕃が待ち構えていた。離れで、直経は玄蕃に細かな指示を伝える。


「玄蕃。策はこうだ。愛知郡の肥田城主・高野備前守賢信殿が、我らと通じているという噂を流せ。単なる噂に留まらぬよう偽りの書状をこしらえ、右衛門督義治殿の耳に届くように仕向けるのだ」


「承知。旅人や商人、そして旅籠の噂話として、巧妙に情報を吹き込みましょう。右衛門督義治殿ならば、疑いの心でその罠に飛び込むはず」


数日後、観音寺城下の市場や居酒屋では、奇妙な噂が飛び交い始めていた。


「愛知郡の高野備前守賢信殿が、密かに小谷へ使者を送った」


「いや、そればかりか、高野備前守殿は浅井家と手を組み、六角を裏切る算段を立てているらしい」


これらの情報は巧妙に脚色され、若き当主・六角右衛門督義治の耳へと届けられた。噂は「高野が浅井の手引きで愛知郡の独立を画策している」という、義治にとって最も忌まわしい形をとっていた。


義治は激昂した。


「高野備前守め、親父(義賢)の代からの古参だと思って好き勝手しおって! 浅井と通じておるとは許し難い!」


六角左京大夫義賢や重臣たちは、この情報の出どころに不自然なものを感じ、「何かきな臭い。浅井の影があるのでは」と慎重論を唱えたが、若き右衛門督義治は聞く耳を持たなかった。


一方で、越前国の一乗谷にも、別の網が投げられていた。


遠藤喜右衛門の命を受けた玄蕃は、越前の市場で情報を操作していた。


「近江の六角家が、浅井家の離反に気付いた。人質の田屋石見守明政殿を旗印に、湖北三郡を攻め落とす準備を進めている。もし湖北が六角の手に落ちれば、六角は美濃の一色家と同盟を結ぶ。その勢いのまま、朝倉様と対峙する腹づもりだそうだ」


さらに、追い打ちをかけるような噂が流される。


「朝倉様が若狭へ手を出せば、六角に隙を見せることになる。それに、若狭武田家の混乱は収まりつつあり、今からの侵攻は難易度が増している……」


一乗谷の評定の場。山崎長門守吉家が、苦々しい表情で朝倉左衛門督義景に報告していた。


「御屋形様。六角家が浅井家へ牙を剥こうとしております。田屋石見守明政を旗印に湖北を平らげ、美濃の一色家と組んで当家に対峙する構えとのこと。また、若狭武田家の混乱も収束しつつあり、若狭への侵攻は得策ではございませぬ」


朝倉左衛門督義景は、冷ややかな瞳で鼻を鳴らした。


「右衛門督義治か……六角もまた自ら混迷の道を選ぶか。長門守、近江の混乱を静観する。若狭への手出しも控える。越前の守りを固め、火の粉を避ける。」


浅井館にて、遠藤喜右衛門は南の空を眺めていた。


「喜右衛門、うまく運んでいるな」


背後から声をかけたのは、浅井新九郎であった。その若き次代の傍らには、浅井左兵衛尉久政が控え、父子ともに確かな手応えを感じている。


「新九郎、観音寺城では右衛門督義治が苛立ち、父の左京大夫義賢殿との溝も深まっておるそうだ。高野備前守殿への疑念も消えぬであろう。後は噂を真にするのみ」


「父上、越前の朝倉も、我らが流した噂で若狭へ手を出すことを躊躇っております。喜右衛門の働き見事。玄蕃も鮮やかな手並みであった」


遠藤喜右衛門と浅田玄蕃は深く頭を下げた。


「若殿、御意に。六角は内側から腐り、朝倉は若狭では無く、我が近江を見ざるを得ませぬ。これこそが、我らが描いた『戦わずして勝つ』道筋にございます」


冷え切った冬の空気が、小谷を覆う。


この噂という名の毒は、南近江の政治的な土台を腐食させ、浅井家が六角という巨大な支配から脱却し、湖北の覇者として君臨するための決定的な大義名分を育てていた。


義治の焦燥、義景の慢心。二人の当主がそれぞれの館で計算を狂わせている間に、浅井家は静かに、しかし着実にその力を蓄え、牙を研ぎ澄ませていたのである。


一乗谷の評定、観音寺城下の疑心、そして小谷の静かな夜。すべては繋がっている。遠藤喜右衛門の知略と、浅田玄太こと玄蕃の影の働き、そして浅井左兵衛尉久政・浅井新九郎親子の決断が、北近江の運命を劇的に変えようとしていた。


季節はさらに冬の深みへと入っていく。だが、浅井家の面々にとって、それは滅びの冬ではなく、新しき支配の夜明けを告げる前夜祭に過ぎなかったのである。

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