表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
23/41

第二十三話:小谷の決断、雪国の風を背に

西暦1559年(永禄二年)・九月


小谷城の大広間には、北近江の運命を決める重苦しい空気が充満していた。

上座には当主・久政が鷹揚に腰を下ろし、その傍らには嫡男・賢政が背筋を伸ばして控えている。


左手には一門衆――庶流ながら融和を司る浅井玄蕃允政澄、外交僧として暗躍する実弟・浅井福寿庵、横山城代の任にある慎重居士・浅井七郎井規、冷静沈着な若手・浅井与次亮親が座した。

本来であればこの席には、初代・亮政の娘婿であり、家中から「大殿おおど」と尊称される田屋石見守明政がいるはずであった。しかし、彼は六角家に対する人質として観音寺城下に留め置かれている。この場にはおらずとも、その名は浅井一門の結束の象徴として、全員の胸中に深く刻まれていた。


右手には重臣衆が居並ぶ。軍奉行として浅井の拡張を支え続けてきた海北善右衛門綱親、宿老筆頭であり政務の要・赤尾美作守清綱、久政の奏者として信頼厚い雨森弥兵衛尉清貞という「海赤雨の三将」が揃い踏み。さらに、賢政の守役であり軍配を預かる事もある、知将・遠藤喜右衛門直経、佐和山の守護神である猛将・磯野丹波守員昌、そして今浜の経営を一手に担う実務家・石田藤左衛門正継が、鋭い眼差しで当主の言葉を待っていた。


一通りの儀礼を終え、越前より帰還した福寿庵が、朝倉左衛門督義景との密約を静かに報告した。


「――左衛門督様は、我が浅井が六角のくびきより脱し、朝倉の同盟国として近江の盾となることを条件に、この盟約を承諾されました」


その言葉が落ちた瞬間、広間にどよめきが走った。朝倉との盟約は、すなわち六角との不可逆的な決裂を意味する。それは、戦国の世において生存か滅亡かという、極めて過酷な賭けの始まりであった。


まず口火を切ったのは、慎重派を代表して浅井玄蕃允政澄であった。彼は久政を見つめ、静かに首を振った。


「殿。朝倉様との盟約は誠にありがたきもの。されど、我が浅井が独立を宣言すれば、六角は即座に大軍を動かしましょう。先代亮政殿の無念を思えばこそ、今の我らが無謀な戦に打って出ることは、早計に過ぎるのではありませぬか。六角に後はあっても、我らには後はありませぬ。加えて、大殿(明政)様が人質として観音寺にいる以上、軽挙妄動は許されませぬ」


横山城代の浅井七郎井規も、政澄の意見を補うように深く頷く。


「玄蕃允殿の仰る通りにござる。兵糧の備えも、鉄砲の調練も、まだ完成の域には達していない。六角の観音寺城は、今なお近江に君臨する巨大な牙城。正面切っての対立は、領民を塗炭の苦しみに沈めるだけ。今一度、六角の出方を伺うべきではありませぬか?ましてや、あえて書面に残さず口約束にしたのでございましょうが、果たして朝倉は動きまするか?」


広間が非戦論の重苦しい空気に支配されかけたその時、一門の中でも若手でありながら、冷静に実利を見極める浅井与次亮親が、膝を前に出す。


「玄蕃允殿、七郎殿の懸念はもっとも。されど、今の六角は右衛門督の焦りにより、統治の綻びを見せ始めている。ただ待つだけでは、六角は我らを疑い、いつか確実に牙を剥くでありましょう。……そこで、一案がありまする」


亮親の言葉に、久政と賢政が注視する。


「殿直轄の鉢屋衆を使い、敵の陣営に噂を撒くのです。愛知郡肥田城を預かる高野備前守賢信殿は、近頃六角の圧政に不満を募らせております。これを使います。未だ寝返りの確約はありませぬが、我らとやりとりがあるのは事実。これを真なる密約があるとし、備前守殿が率先して愛知郡の国人衆までも声をかけ、我先にと浅井に密かに通じていると……この火種を大炎上させ、六角の疑心暗鬼を引き出します。右衛門督が自ら備前守殿を追い詰めれば、備前守殿と愛知郡の国人衆は六角に見切りをつけ…という絵図はいかがか」


「……何と…」


驚愕した石田藤左衛門が短く答えた。


対して、海北善右衛門はニヤリと笑った。


「なるほど。疑り深い右衛門督殿は、愛知郡の諸将を『裏切り者』と見なすわけか。その噂、越前にも流すのであろう?朝倉の底も見えよう」


雨森弥兵衛尉が補足する。


「六角が自ら味方を敵に変える。そして、裏切りの手引きを口実に理不尽な圧力をかけてきた時こそ、我らには『正当なる抵抗』という名分ができる。大義名分があれば、六角の諸将も戦意は上がるまい。これは……見事な策にございます」


「そうなれば、愛知郡の諸将は六角への忠義を疑われ、居場所を失う。追い詰められた彼らは、噂が誠になり、にこちらへ助けを求めてくるかもしれぬな」


赤尾美作守が感心したように頷く。


その策の残酷なまでに鮮やかな着眼点に、戦立てだけで無く、諜報・調略を得手とする遠藤喜右衛門も目を細めた。


「殿、この策は殿直轄の鉢屋衆を用いるのが肝要にござる。許可をいただければ、某が鉢屋衆に指示を出し観音寺、そして越前は一乗谷に偽の情報を流し込みましょう」


久政は、慎重派の玄蕃允政澄と七郎井規の顔色をうかがう。大きな不満は無いようだ。慎重論を唱えながら、六角に思う所はあるのだろう。そして、最後に嫡男である賢政に視線を移した。


「新九郎どうか?与次の献策は、六角と我らの戦を、我らの意のままに操るための道筋だ」


賢政は力強く答えた。


「父上。慎重論は理解できます。されど、今の我らに必要なのは、六角が『自滅』するための導火線です。与次の策ならば、小谷の民を危険に晒す事なく、六角を内側から崩せるはず。鉢屋衆を喜右衛門に委ね、早急に着手すべきです。また、この密約を機に、我らは六角への『上納』を徐々に滞らせるべきです」


「滞らせる、とな?」


久政が問いかける。


「水面下で朝倉との連携を深め、六角からの独立を既成事実とします。六角が軍を動かす理由を我らが与えつつ、迎え撃つのは我らの土俵……。もし、右衛門督が拙速に兵をおこすなら…、まずは佐和山が標的となるが、丹波守どうか?」


磯野員昌は、賢政の言葉に深く頷き、快活な笑顔を見せた。


「若殿、面白うございます。承知いたしました。私の備えで、観音寺からの追っ手を何度でも追い返してみせましょう。楽しみですな。腕がなりまする!」


一門と重臣たちが議論を重ねる中、赤尾美作守清綱と海北善右衛門綱親、雨森弥兵衛尉清貞が、久政に向き頷く。海赤雨の三将の賛同は、先代の頃から家中にとって何よりの指針となってきた。


久政はついに決断を下した。


「良し。六角との手切れはひとまず隠す。そして、正面からの衝突は避ける。与次の策に従い、観音寺を疑心の渦中に叩き込め。七郎、玄蕃允、民の動向には細心の注意を払え。……これより浅井は、己の舵で運命を切り拓く」


「ははっ!」


皆が頭を下げ、賛同の意を示す。


人質として観音寺にあり、この場にいない田屋石見守明政の無事を願いつつ、浅井家はついに、六角という巨大な支配からの離脱を定めた。


冷ややかな秋風が小谷城を吹き抜ける。それは、北近江を覆う長い暗雲を払い、新しき時代の到来を告げる合図であった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ