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第二十二話:雪国の盟約、越前の影

西暦1559年(永禄二年)・九月


秋の気配が北近江に忍び寄る頃、浅井新九郎賢政は領内の統治を固めつつ、独立の機を窺っていた。だが、六角という巨大な影を払うには、小谷の力だけではあまりに心許ない。父・左兵衛尉久政は密かに、浅井家きっての外交の機微に通じる浅井福寿庵を呼び寄せ、ある重大な密命を授けた。


「……越前へ参り、朝倉左衛門督様へ我が家の窮状を訴えよ。先代亮政公が六角に敗れ、窮地に陥った際、宗滴公が救い出してくださったあの友誼……今こそ、その恩義にすがりたいと伝えよ。書状でのやりとりは、既に数度。そろそろ良いだろう」


福寿庵は、六角家の監視の目を盗み、険しい山道を超えて越前国へと向かった。


一乗谷は、京にも比肩する文化と軍事の結節点であった。福寿庵は、その華麗な調度品に囲まれた広間にて、朝倉家当主・朝倉左衛門督義景と対面した。義景は、京の風流をそのまま越前に持ち込んだかのような、傲岸かつ優雅な所作で座している。


福寿庵は、額が床に擦りつくほど深く平伏した。


「左衛門督様、この度は面謁の栄を賜り、誠に恐悦至極にございます。小谷の地より、左衛門督様の叡智と、一乗谷の繁栄を仰ぎ見るたび、当主左兵衛尉久政も『近江に左衛門督様のようなお方がいれば、天下はどれほど穏やかであろうか』と、日々その徳を讃えておりまする」


自尊心の塊である義景は、福寿庵のへりくだった様子に鼻を鳴らしつつも、内心では満足げに扇子を扇いだ。


「……浅井の者か。左兵衛尉も随分と殊勝なことを申すものよ。して、山深き近江の者がわざわざ越前へ参った用件は何だ」


福寿庵は顔を上げず、切々とした口調で語り継いだ。


「左衛門督様のお耳に入れておきたいことがございます。……かつて先代・亮政が六角弾正少弼定頼に敗れ、小谷城で死を覚悟した籠城の折……左衛門督様の叔父君であられる宗滴様が軍を動かし、我ら浅井を救い出してくださいました。あの日の恩義、浅井家は一分たりとも忘れてはおりませぬ。六角の圧政に喘ぐ今こそ、我らは再び、あの越前の高潔なる志にすがらせていただきたいのです」


義景は、優雅な所作を止め、じろりと福寿庵を射抜いた。


「恩義か。だが、時は流れた。今更、浅井を助けて何の利がある?左兵衛尉は既に六角に降り、我が朝倉とは随分疎遠になったものよ。今更、書状を何度送られてもの」


「左衛門督様は、我らが北近江をただの辺境とお考えではございませぬはず。今浜、塩津を束ね、国友の筒を有する我らが、左衛門督様の『近江への窓口』となれば、越前の威光は京へも、さらには南へと伸びましょう。六角の老獪な支配を終わらせるに、左衛門督様のお力添えこそが必要なのです。貴い左衛門督様の、天下を俯瞰するその御眼で、我が浅井を朝倉家の『盾』として育ててはいただけませぬか。今ならまだ間に合いまする。浅井は六角に降るとも、お家は健在。真に恐ろしいのは、我が浅井の家が尽き、湖北三郡全て六角のものになった場合にございます」


福寿庵はさらに深く頭を下げる。義景の野心と、自分を仰ぎ見る者に対する慈悲、そして隠しているつもりの支配欲をくすぐる。


(……浅井の者も、分かっておるわ。六角が幅をきかすのは面白くない。だが、浅井を上手く飼い慣らせば、近江の利はすべて我が朝倉のものとなる。我らも加賀の一向宗に対峙する為には、若狭を手中にする為には、南の盾は欲しいところ…)


義景は、ゆっくりと立ち上がり、福寿庵の前に歩み寄った。


「……左兵衛尉の言葉、嘘ではあるまいな。宗滴の恩義に報いるというならば、浅井は今後、いかなる時も我が朝倉の意に従うと誓えるか」


「誓います。浅井の命運、左衛門督様に預け奉ります」


義景は満足げに笑った。

その盟約は書状には残らぬ。しかし、越前の威光という名の鎖が、確かに浅井と朝倉を繋いだ瞬間であった。


帰り道、福寿庵は一乗谷を見下ろしながら深く息をついた。

浅井は六角から独立するための「後ろ盾」を得た。だがそれは同時に、雪国の龍の懐に飛び込む危うい選択でもある。福寿庵は、脳中に忍ばせた密約を吟味しながら、急ぎ北近江へと馬を走らせた。


秋風が、山間の紅葉を揺らしている。戦国の渦は、確実にその速度を増していた。

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