第二話:観音寺城の祝賀と潜む火種
西暦1559年(永禄二年)・正月
猿夜叉は、母・小野殿に静かに一礼し、濡縁を去った。向かう先は観音寺城の本丸大広間。六角家の威光を示すべく、豪奢な障壁画に彩られたその場所には、近江の支配者たちが勢揃いしている。
長い廊下を歩む猿夜叉の足取りは重厚だが、音は静かであった。五尺七寸の巨躯は、武士としての威圧感を放たずにはいられないが、彼は努めて肩をすぼめ、首を垂れて歩いた。
(今はただ、潜む時。隠した牙を剥くのは、この城を出る時よ)
大広間の重い扉が開かれる。
正面の上座に座すのは、六角家現当主・六角右衛門督義治。その隣には、隠居の身ながら実権を握り続ける先代当主・六角左京大夫義賢が、油断のない眼光を湛えて鎮座していた。
その両脇には、六角家の屋台骨を支える「六宿老」たちが居並ぶ。後藤但馬守賢豊、進藤山城守賢盛、平井加賀守定武、蒲生下野守定秀、三雲対馬守定持、目賀田摂津守綱清。近江の政治を合議で動かす彼らの放つ空気は、一介の人質に過ぎぬ猿夜叉を圧殺せんばかりの重圧であった。
猿夜叉は、広間の中ほどで深々と平伏した。
「小谷の浅井左兵衛尉が嫡子、猿夜叉にございます。右衛門督様、左京大夫様。新春の御慶びを申し上げます。併せて、此度の元服の儀、並びに平井加賀守殿の娘御との縁組みをお許しいただき、恐悦至極に存じ上げます」
その声は低く、どこまでも謙虚であった。
(……この巨躯でこれほど平身低頭になるとはな。かえって不気味よ)
左京大夫義賢は、猿夜叉の鋼のような背中を見つめ、心中で舌を巻いた。義賢は、猿夜叉がただの木偶の坊ではないことを知っている。狩りや武芸で見せるその身のこなし、そして時折見せる鋭い眼光は、ありし日の浅井亮政を彷彿とさせた。
しかし、口を開いたのは若き当主、右衛門督義治であった。
「ふん。相変わらず図体ばかり大きいな、猿夜叉。見上げるほどの大男がそのように丸まっては、まるで這いつくばる牛のようではないか」
義治の言葉には、隠しきれない棘があった。彼は父・義賢がいまだに実権を手放さず、宿老たちが自分を軽んじて合議を進める現状に、激しい苛立ちを抱えていた。その鬱憤の矛先は、世代が近く、それでいて「麒麟児」との呼び声高い猿夜叉へと向けられた。
「……恐れ入り奉ります。右衛門督様の御威光の前に、己の器の小ささを思い知るばかりにございます」
猿夜叉は顔を上げず、淡々と答えた。
「器だと? 左様。お前は所詮、我が六角の忠実なる番犬であれば良いのだ。一月後の元服の儀では、加賀守を親とし、我が父の一字を戴くのであろう? 浅井新九郎『賢』政。良い名ではないか。分限を弁え、我らへの忠義を尽くせ」
義治は、宿老たちの顔色を伺うように言った。しかし、後藤賢豊や蒲生定秀ら老練な重臣たちは、義治の器量の狭さを苦々しく思うかのように、沈黙を保っている。
その中で、烏帽子親を務めることとなっている平井加賀守定武が、助け船を出すように口を開いた。
「右衛門督様、猿夜叉殿は浅井と六角を結ぶ要の御方。私の娘、梢も、猿夜叉殿の妻となる日を心待ちにしております。これからは身内も同然。何卒、寛大なる御心をおかけくださいませ」
(加賀守殿……。有難きお言葉だが、それが右衛門督様の火に油を注ぐことになる)
案の定、義治は鼻で笑った。
「加賀守も甘いのう。このような北近江の田舎侍に、大事な娘をやるのがそれほど嬉しいか。おい、猿夜叉。元服の祝宴では、精々その巨躯に見合うだけの酒を飲み干してみせよ。粗相があれば、婚礼そのものを考え直さねばならぬな」
「……御意。肝に銘じます」
猿夜叉は、畳を掴む指先にわずかな力がこもるのを抑えた。
(右衛門督殿、貴殿が喚けば喚くほど、六角の統制が乱れていることが透けて見える。宿老たちの目が、貴殿ではなく左京大夫様と、そして……平伏するこの俺を注視していることに気づかぬか)
左京大夫義賢は、一言も発さず、ただ静かに息子と猿夜叉のやり取りを観察していた。義賢の目には、猿夜叉の背後に、いずれ六角の喉元に食らいつくであろう「若き虎」の幻影が見えていた。
「猿夜叉、下がってよい。式次第については加賀守と細かく詰めておけ」
義賢の重みのある一言で、その場は締めくくられた。
「ははっ。失礼いたします」
猿夜叉は、一度も視線を鋭くすることなく、丁寧な所作で広間を辞した。
廊下に出た瞬間、冷たい冬の空気が彼の火照った肌を撫でた。
(元服まで一月。浅井新九郎賢政か……。その名、甘んじて受けよう。だが、その名が六角にとって呪縛となるか、あるいは浅井の飛翔の翼となるか。右衛門督殿、貴殿には到底想像もつくまい)




