第一話:雪の観音寺城、胎動する野心
西暦1559年(永禄二年)・正月
近江国、湖東の峻険なる繖山に築かれた六角家の居城・観音寺城。正月の祝賀の雰囲気に包まれているはずの城内だが、落ちる雪は静謐そのものであった。
その一室、濡縁に一人の若武者が立っていた。名は猿夜叉。北近江を治める浅井家の嫡子である。
猿夜叉の体躯は、十五歳という若さながら、同年代の若者の中でも抜きん出ていた。身長は五尺七寸(約173センチ)に達し、未だ伸びている。冬の寒気の中でもなお、直垂の下に引き締まった鋼のような筋肉の躍動を感じさせる。力強い眉の下にあるその眼光は、やや好戦的な鋭さを持ちながらも、深く物事を思案するような知的な光を湛えていた。整った鼻梁と、やや厚みがあるが血色の良い唇は、彼の持つ高貴さと生命力を象徴している。
猿夜叉は胸の前で太い腕を強く組み、指先に力がこもるのを感じながら、薄っすらと白く染まり始めた庭園を眺めていた。
(この雪が、浅井の屈辱を覆い隠してくれれば良いのだが……)
数日後、猿夜叉は元服の儀を控えている。加冠役(烏帽子親)を務めるのは、六角家の宿老・平井加賀守定武である。元服後は、六角家当主・六角左京大夫義賢の一字を賜り、浅井新九郎賢政と名乗ることとなる。
そこへ、背後から静かな衣擦れの音が響いた。
「猿夜叉殿、そのような寒空の下に立ち尽くしては、お体に障りますよ」
母、小野殿であった。彼女は浅井家の正室でありながら、今、その表情には深い陰りがある。彼女の生家である井口家と浅井家の間では、高時川(妹川)の水利権を巡る激しい争いが続いていた。その煽りを受け、彼女は夫である浅井左兵衛尉久政から疎まれる日々を送っていた。なにより、正室でありながら、六角家への人質とされたこの現状が、雄弁にそれを物語っていた。
「母上。案じ召されるな。この程度の雪、北近江の寒さに比べれば、何程のこともありませぬ」
猿夜叉は組み上げた腕を解かぬまま、静かに答えた。
「左兵衛尉様……殿は、小谷におられますか」
「ええ。小谷城の土塁拡張の指図に加え、高時川の件で、母上のご生家でもある、井口家との談判に追われておられます。父上は、浅井を単なる国人衆の代表から、江北三郡を統べる真の旗頭へと押し上げようと、心血を注いでおいでです」
猿夜叉は、心のうちで父への複雑な敬意を反芻した。
(父上……。六角への服属という一点においては、我ら若輩とは相容れぬ。しかし、あの執念深いまでの領国経営、水利の差配、そして小谷の要塞化。それらによって浅井の基盤が固められていることもまた、事実。父上が土を盛り、水を引くことで、浅井という大樹の根は確かに深くなっているのだ)
父・左兵衛尉久政の治績に対しては、猿夜叉も高く評価していた。外交の弱腰を批判する家臣は多いが、内政において久政が見せる緻密な手腕こそが、いつか訪れる「自立」の瞬間のための蓄えになることを、彼は知的な眼差しで見抜いていた。
小野殿が、猿夜叉の隣に寄り添うように立った。
「元服の儀が終われば、平井加賀守殿の娘、梢殿との婚礼も決まっております。加賀守殿が烏帽子親を務めるのも、そのためでしょう」
その名を聞いた瞬間、猿夜叉の瞳がわずかに揺れた。
平井定武の娘、梢。人質として観音寺城に身を置く猿夜叉にとって、彼女は数少ない、心を許せる存在であった。幼い頃からこの城内で共に過ごし、兄妹のように睦まじく育ってきた。彼女の無邪気な微笑みに、どれほど救われたか知れない。
(梢……。お前が俺の妻になることに、異存はない。むしろ、他の誰よりも、お前が傍らにいてくれることは心強い)
しかし、同時に暗い影が胸をよぎる。
(だが、俺がいずれ六角の枷を断ち切る時。それは即ち、お前の父である加賀守殿と刃を交える時だ。浅井が真の独立を果たす時、お前をどのような立場に追い込むことになるのか……)
梢への情愛が深ければ深いほど、自らが描く野心が彼女を傷つけるであろう未来が、猿夜叉の心を疼かせた。
「加賀守殿は、私を気に入ってくださっている。だからこそ、この縁組を六角家内でも強く推されたのでしょう」
「ええ。平井殿は貴方の中に、底知れぬ器量を見ておいでです。……新九郎殿、どうか、梢殿を大切にしてあげてくださいね。あの娘もまた、この政の渦中に投げ込まれる、一輪の花なのですから」
小野殿の言葉は、まるで自分自身の境遇を重ねているようでもあった。猿夜叉は再び腕を組み、今度は自らの筋肉が軋むほど強く力を込めた。
「分かっております。……母上、私は決めたのです。父上が築き上げたこの基盤を、決して無駄にはせぬと。六角の傘下で力を蓄え、いつの日か、この雪が溶け、北近江の地に春の嵐を呼ぶその時まで」
雪は次第に強さを増し、観音寺城の壮大な瓦屋根を白く塗り潰していく。しかし、猿夜叉の瞳の中に宿る野心の火は、消えるどころか一層強く燃え上がっていた。
この日、一人の若武者の胸中に、愛と野心、そして冷徹な計算が同居したまま、歴史の歯車が静かに、しかし確実に回り始めたのである。




