第十八話:観音寺の動揺、慎重なる利の計算
西暦1559年(永禄二年)・五月
観音寺城の奥の間、重厚な杉戸の向こうで六角父子と重臣たちの密議は続いていた。
田屋石見守明政を退出させた後の広間には、異様なまでの沈黙が流れている。
六角左京大夫義賢は、数珠を指で繰りながら、苦渋に満ちた表情で宿老たちを見渡した。
「……先刻の石見守の策、お主らはどう見る。小谷の賢政を討ち取る好機か、あるいは我らを浅井の泥沼へ引きずり込む罠か」
(田屋は浅井で長く重用されてきた男だ。そのような男が、これほど都合よく寝返るものか……。賢政の青二才ぶりは聞き及んでいるが、それほど簡単に小谷は囲めぬ…だが…)
広間に控えるのは六角家の屋台骨を支える宿老たちである。義賢の手元には、既に浅井家から届けられた正規の書状があった。そこには、久政から賢政への家督継承が先送りにされた経緯が、浅井側の弁明としてしたためられている。
「国人衆との水利争い、領地利権の調整が未決。家中が分裂の危機にあるゆえ、いま家督を移すのは不安である。下手に強行すれば不満を抱える国人衆に隙を与え、朝倉の介入を招きかねぬ…と」
義賢が冷ややかな声で書状の内容を読み上げる。
「この報告は、浅井家内の混迷を如実に表しておる。石見守の策、あながち嘘ではあるまい。久政の弱腰と新九郎の若さ、そして国人衆との軋轢……。浅井家は内から腐り始めているのかもしれぬ」
(久政の優柔不断さ、そして新九郎の若さ。家督すらままならぬという噂が公式の書状で証明されたとなれば、家中には相当な不満が渦巻いているはずだ。田屋がその隙を突こうとするのは、武士として当然の帰結かもしれん)
だが、真っ先に口を開いたのは、慎重を旨とする宿老の一人、布施淡路守公雄であった。彼は丁寧な所作で、義賢に向き頭を下げる。
「恐れながら、御屋形様。石見守殿の策はあまりに美味すぎてございます。それに、今は農繁期。この時期に無理な動員をかければ、領内の民の反発を招き、次期の収穫に響きましょう。これ以上の負荷は、領民を疲弊させ、かえって家中を乱す火種となりかねませぬ。軍を動かすは、利あらず……」
(もし兵糧の供出を強要されれば、従わねばならぬ。しかし、我が所領の蓄えは底をつく。合戦の勝敗に関わらずだ。まして不備があれば、責任を押し付けられるのは後方の守りである拙者だ。田屋の策など、所詮は他人事の博打に過ぎぬ……)
この発言に、宿老連の筆頭席で黙して聞いていた後藤但馬守賢豊が、鋭い視線を投げかけながら大きく頷いた。
「淡路守殿の仰る通りでございます。拙者も賛成いたします。浅井の家督継承が先送りされたからといって、奴らが即座に崩れるわけではございませぬ。むしろ、あのような不穏な報告をわざわざ寄越すのは、我らを誘い出すための虚報の可能性も捨てきれませぬ。今は動く時ではなく、地力に勝る我らは小谷の混乱が頂点に達するのを待ち、どっしりと構えるべきかと」
(田屋のような裏切り者に乗せられ、一揆でも起きてみろ。戦う前から勝敗は決してしまう。慎重を期すのが、今の六角家のための王道よ)
他の宿老たちも、頷き合う。彼らにとって、戦は家臣団の声望を競う場であると同時に、所領の経済的疲弊を招く忌々しい事態であった。家中には、明政の策を「あまりに都合が良すぎる」と冷ややかに見る論調が圧倒的であった。
しかし、その場を遮るように、六角右衛門督義治が力強く床を蹴った。
「臆病風に吹かれるな、皆の者! 農繁期だからこそ、小谷の連中も農作業に手を取られているのだ。今こそ不意を突く絶好の機会ではないか!」
義治は扇子で広間を強く指し示した。
「浅井の若造は、今浜の代官所だの何だのと、民を甘やかす軟弱な治世を敷いている。奴の首を落とし、浅井の領国を我が六角の支配下に入れれば、近江の旗頭は我が六角であると、誰もが認めよう。……石見守の裏切りが本物であろうと、罠であろうと、それを踏み越えて勝てば我らが正義となるのだ!」
(新九郎など、父上の威光に隠れて何もできぬ腰抜けよ。この私が奴の首を獲り、六角の力を誰の目にも明らかにしてやる。それができれば、父上もこやつらも、私を認めざるを得ないはずだ……)
義賢は、野心に燃える息子の目を複雑な思いで見つめた。
(義治……お主はあまりに功を焦っている。だが、この若さを抑えつけることこそが、今の六角の均衡を保っているのだ。浅井も同じという訳か。家督継承の遅れという好機、これを活かさぬ手はないが……)
「……わかった。石見守の策は、引き続き精査する。だが、直ちに兵を動かすことは許さぬ。淡路守、但馬守、お主らの懸念も理解した。まずは農繁期の動向と、浅井の手の者と田屋明政が接触していないか、影の者に徹底的に探らせよ」
義賢は苦虫を噛み潰したような顔で言い放った。
観音寺の石垣は堅牢である。しかし、その内実は浅井を滅ぼそうとする野心と、己の利を失いたくない臆病な思惑との間で、静かに軋み始めていた。




