第十七話:観音寺の深淵、老将の喉元
西暦1559年(永禄二年)・四月
近江国六角氏の居城、観音寺城。
この巨大な山城の奥深く、重苦しい空気が漂う評定の間で、田屋明政は静かに膝をついていた。
周囲には六角家の家臣たちが目を光らせ、まるで檻の中にいる虎を監視するような視線を投げかけている。
明政はふと、この城に初めて「連絡役」として足を踏み入れた日の、六角義治との問答を脳裏に再生していた。
――先月、現当主・六角右衛門督義治は、控える明政を見下ろしながら冷笑した。
「田屋の老いぼれよ。貴様、本当に浅井を捨てる気か?」
義治の瞳には、一切の慈悲も信義もない。そこにあるのは、獲物に対する下卑た好奇心のみであった。
「……浅井家にて、私は死んだも同然。当主の久政は優柔不断、その子・賢政は青二才。あのような暗愚な血統に、これ以上仕える気など毛頭ありませぬ。そもそも、先代亮政公に世継ぎにと望まれたのは、某でござる」
明政はあえて声を枯らし、長年胸に溜め込んできた不満を吐き出すように答えた。
(……貴様のような軽薄な若造に、我が痛みなど理解できようはずもない。浅井の毒を飲ませるために、この汚名を甘受してやっているのだ)
「ふん、信用ならん男だ」
義治は鼻を鳴らす。
「貴様、裏で浅井と通じて我らを撹乱するつもりではないのか?」
「ならばご覧あれ。もし六角様が佐和山を攻める折、私がご助力申し上げれば、浅井の防衛線など砂の城に等しい」
明政は、あらかじめ用意していた毒の策を語り始めた。
「佐和山攻めの際、私は密かに高島郡の自城、田屋城へ戻りましょう。浅井主力が佐和山に釘付けとなった隙を狙い、湖を渡って湖北を進撃する。久政の統治に不満を抱く国人衆は少なくありませぬ。これらを調略し、伊香郡を一気に陥落させまする。……最後は、孤立した小谷城を我が軍で包囲し、賢政の首を差し出しましょう」
明政の回想はしかし、六角左京太夫義賢の低い声で遮られた。その声音は、明らかに明政を問い詰めていた。
「……面白い。が…貴様の『小谷包囲』、聞き飽きたわ」
義賢は歴戦の当主であり、その眼光は明政の内心にある僅かな綻びをも見逃そうとはしない。
(……この男、あまりに出来すぎた策を並べる。もしや、我らを油断させる罠か…)
「田屋殿。お主の策は勇ましいが、忠誠の証が今ひとつ見えぬ。なぜ、今日まで浅井のために尽くしてきたお主が、昨日今日でこれほど冷酷になれるのか」
義賢の鋭い追及に、明政は微塵も表情を変えず、静かに伏した。
「……左京太夫様、人は愛したものに裏切られると、その愛の深さゆえに、憎しみもまた深く濁るものにございます。私には子がおりませぬ。わが子同然の田屋城、家臣もまた、久政の息がかかった者に抑えつけられております。わが義父、亮政公が築きあげた浅井は、もう無いのでございます。もしこの策がならぬ場合、失うものはこの皺首ひとつ。六角のお家に損はありませぬ」
明政の胸中では、小谷で鍛え上げた新七郎の成長を思い、一瞬だけ慈愛の灯が揺らぐ。
(賢政よ、わしが観音寺で刻む時が、貴様の野望の糧となればそれでよい。……六角よ、貴様らは知らぬのだ。わしが語る『策』という名の下に、貴様らの軍勢が本来進むべき道から引き剥がされ、浅井の仕掛けた泥沼へと誘導されていることを)
「父上、そこまで疑う必要はありますまい」
義治が、明政の肩を軽く叩いた。その目は『利用価値があるうちは飼っておく』という残忍な光を湛えている。
「田屋殿の策通り、小谷を包囲できれば我らの勝利は盤石。失敗すれば、その時は田屋殿の首を刎ねればよいだけの話。これほど分かりやすい忠誠はありませんぞ」
(……愚かな。貴様のその自信が、六角を滅ぼす引き金になるというのに)
明政は恭しく頭を下げ、内心で冷ややかに笑った。六角家内には、明政を疑う賢明な義賢と、己の権勢に酔い家中の地位を盤石にしたい、義治という対立の種がある。その種に、浅井の軍勢が水を与え、いずれ大樹を腐らせる日が来る。
観音寺城の奥深く、老将は六角の首元に、静かに、しかし確実に牙を突き立てていた。




