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第十五話:小谷の甘き果実、叡智への誘い

西暦1559年(永禄二年)・三月


春の気配がようやく小谷の峰々にも訪れ始めたある日のこと。

賢政は、家臣たちには内密に、山あいに静かに佇む真言宗豊山派の祈願寺・小谷寺おだにでらを訪ねていた。浅井家三代の守り寺であり、人質時代たまに許された帰省の際に必ず立ちよった場所である。


境内に入ると、どこからともなく甘酸っぱい香りが漂ってきた。


「やあやあ、新九郎様ではございませんか! お顔を見せてくださるとは、今日はまた上機嫌な風が吹いておりましたな」


大声を上げて迎えてきたのは、この寺の和尚、豊稔である。手に小ぶりの徳利をぶら下げたその顔は、昼間だというのにほんのりと赤らんでいる。和尚は、酒をこよなく愛し、常に明るく憎めない人柄で知られていた。


「豊稔和尚、相変わらず酒の香りが漂っておりますぞ。仏の御前でその態度は、いかがなものかと……」


賢政は苦笑を禁じ得ない。そのあまりの奔放さに、賢政はいつもどう接してよいものか困惑させられるのだ。しかし、この屈託のない笑顔を見ると、張り詰めていた心の糸が少しだけ解けるのもまた事実であった。


「堅いことはおっしゃいますな! この酒、只の酒ではございませぬ。この境内に自生する『小谷林檎』を漬け込んだ、この寺秘伝の『林檎酒』にございますぞ」


和尚は得意げに徳利を掲げた。境内には、まだ実はついていないものの、等間隔で立派な木々が並んでいた。かつては野生の恵みであったが、今では和尚の熱心な世話により、境内の一角が林檎の果樹園のように広げられていた。


賢政はその話に、ハッと目を見開いた。


(林檎は、そのままでは市場に出すことも叶わぬ。だが、酒として価値を高めれば……あるいは、加工次第では新たな特産品となるやもしれぬ)


戦国の世、兵站や食料の確保は喉から手が出るほど重要だ。しかし、それ以上に「特産品」による領国の経済的な潤いは、民を養うための豊かな土壌となる。


「和尚、その林檎酒……一度、我が館の者たちにも試飲させたい。この小谷の地を、誰もが知る林檎の里にできぬか、考えてみよう」


「それはようございますな。少しお分けいたしましょう。少しですぞ!」


賢政が和尚と林檎酒について談笑していると、境内の木陰から、見覚えのある僧が姿を現した。

身軽な装束に身を包み、背負い籠には色とりどりの薬草を詰め込んだ、あの叡海えいかいであった。


「……また、お会いいたしましたな」


叡海は淡々とした口調で賢政に会釈した。このあたりの山は、薬草の宝庫として名高い伊吹山に近く、いくばくかの薬草が採れる。彼は春の芽吹きに合わせ、秘伝の薬草を採取しに来ていたようであった。


賢政は、ふと思い立った。大殿・田屋明政のような老練な政治家の知恵も素晴らしい。しかし、己の野望を支えるためには、世俗のしがらみに縛られぬ、こうした「異端の知恵」を持つ男が必要なのではないか、と。


「叡海、少し歩かぬか」


賢政は和尚に別れを告げ、叡海を境内の静かな一角へ誘った。


「お主は、この世の薬草を知り、山川の気脈を理解している。……私には、まだ誰も知らない、浅井の未来を共に描く『相談役』が必要なのだ」


叡海の瞳が、一瞬だけ揺らぎ、すぐに深く静かな光を宿した。


「……貴方様のような武士が、この私に何を求めると?」


「軍略やまつりごとなどという、狭い枠組みの話ではない。この地をどう活かし、どのような国を築けば、民が明日を信じられるか。……お前のその眼で、浅井という器を覗いてみてはくれぬか」


叡海は背負っていた籠を置くと、穏やかながらも揺るぎない眼差しで賢政を見つめた。そして、静かに首を横に振った。


「猿夜叉様⋯いや、賢政様でございましたな。貴方様が持つその気概と、民を想う志……心より敬服いたします。しかし、私は山で生き、山で死ぬことを選んだ一介の僧。特定の家に仕え、血で血を洗う戦の世のまつりごとに手を貸すことは、私の本分ではございません」


丁寧ながらも、一切の隙のない断りであった。賢政は、その拒絶に落胆するどころか、かえって叡海の誠実さに感銘を受けた。安易に主君を替える者よりも、己の信念を曲げぬ者の方が、遥かに信頼に足る。


賢政は引き下がりながらも、その瞳には諦めの色はない。


「……そうか。お主がそのように言うならば、無理には強いてまいらぬ。だが、叡海。私は諦めぬ。お前のその知恵が、いつか必ず民の命を救う時が来ると確信しているからだ。……せめて、この地から何が『未来の種』となり得るか、お前の見立てを聞かせてもらえぬか」


賢政の真摯な問いかけに、叡海は少しだけ沈黙し、周囲の山々を見渡してから穏やかに口を開いた。


「承知いたしました。私に分かる範囲で、お答えさせていただきます」


叡海は、指先で山脈と川の流れを指し示した。


「賢政様。まずは薬草でございます。採取したものをそのまま売るのではなく、適切に乾燥させ、保存が効く形に加工すれば、立派な産物となります。この地に大規模な薬草園を設ければ、冬場の農閑期においても民に働き口を提供でき、領国の安定にも繋がりましょう」


「なるほど、薬草を加工品として売る……。確かに、これならば兵站の糧にもなるな」


「左様でございます。また、この山々に自生する茶も同様です。林檎と同様に畑を開き、産地として育てるべきでございます。そして何より、木材でございます。この地の良質な材は、姉川を利用した水運を用いるのが肝要にございます。川を下れば、琵琶湖の要衝となり得る今浜いまはまの、ほど近くに出ます。そこに集積地を築けば、近江のみならず京や堺への流通拠点として、莫大な富を産み出すことになりましょう」


叡海の言葉は、軍略よりも遥かに深く、賢政の心に突き刺さった。

ただ領土を広げるだけではない。そこに住まう民を育て、富を循環させることこそが、真の強国への道であると、諭してくれたのだ。


「薬草、茶、木材、そして今浜の水運……。叡海、お前の知恵の鏡は、どのような軍略にも勝るな」


「恐れ入ります。私はただ、山が教えてくれることわりを口にしたに過ぎません」


賢政は深く頷いた。


叡海の言葉は、賢政の心に深く刻まれた。だが、その隣で話を聞いていた和尚が、陽気な笑い声を上げて割って入った。


「新九郎様、林檎のことでございますか? 実はこれ、我が寺だけのものではございませぬぞ!」


和尚は徳利を片手に、少し誇らしげに鼻を鳴らした。


「実は以前、賢政様の叔母君であられる昌安見久尼しょうあんけんきゅうに様が当寺へお見えになった際、この林檎の話をいたしました。その際、尼様がいたくこの林檎を気に入りましてな。……なんと、尼様のおられる『実西庵』にて、既に本格的な栽培を始めておられるのでございますよ」


賢政は目を丸くした。


「叔母上が、実西庵で林檎を……?」


「左様! 尼様は慈悲深きお方、民が林檎を食せば病も遠のくであろうと、せっせと手入れをされておりましてな。先日お会いした折にも、『近隣の民の助けもあり、順調に生育している』と、それはもう嬉しそうに仰っておりましたぞ。あの方は、林檎の木を育てる才もおありのようですな」


賢政は、叔母である昌安見久尼の慈愛の深さを思い出し、胸が熱くなるのを感じた。


(叔母上もまた、この地の未来を見据えておられたのか……)


武士が戦に明け暮れる陰で、女たちはその手で大地を耕し、命を繋ぐための「実り」を育てている。林檎という小さな果実が、いつの間にか一門の静かな連携を生み出し、浅井の領国を内側から潤そうとしていることに、賢政は深い感慨を覚えた。


「和尚、叔母上の実西庵へも近々伺わねばならぬな。林檎一つとっても、この地の民は皆、未来を信じて動いているのだ」


賢政は叡海を顧み、静かに言った。


「叡海、今の話を聞いてどう思う。この地には、ただ戦うだけでなく、生きるための知恵と慈愛が満ちている。これこそが、私が守り、発展させたい『浅井の領国』だ」


叡海は、林檎の木々を見上げ、微かな笑みを浮かべた。


「……賢政様。貴方様がそのように、民のささやかな実りにも目を向けられるのであれば……私のこの身、今は仕官という形ではなくとも、薬草を通じて、あるいは山々の知恵を伝える『相談役』として、折に触れて貴方様のお力添えをいたしましょう」


賢政は満足気に頷き、春の柔らかな風を胸いっぱいに吸い込んだ。春風が、優しく薫風を運んでいた。

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