第十四話:月に惑う、ふたつの灯火
西暦1559年(永禄二年)・二月
大殿・田屋明政が「連絡役」という名の人質として観音寺城へ出立してから、小谷の館にはどこか張り詰めた静寂が居着いていた。
表向きは六角家の要求に折れた形を取りながらも、家中の誰もが、これが嵐の前の静けさに過ぎないことを肌で感じていた。牙を研ぐための『時』は、老将の無私の覚悟によって辛うじて贖われたのだ。
その重圧を誰よりも深く背負っているのが、新九郎賢政であった。
冬の夜気は刃のように冷たく、小谷山の夜空には、凍てついたような白い月がただ一つ、冴え冴えと輝いていた。
深夜の居室、縁側に一人座り込んだ賢政は、月明かりに照らされた己の手のひらを見つめていた。
(いずれ、この手は六角を撃つ。撃たねばならぬ。浅井が江北の地で真に立つためには、あの巨大な壁を乗り越えねばならぬ。父上が泥をすすりながら繋いだこの家を、巨大な大樹へと伸ばすために……)
その決意に、一片の揺らぎもなかった。十五歳という若さでありながら、賢政の胸中にはすでに一国を統べる者としての冷徹な算盤が弾かれている。
だが、確固たる野心と覚悟の裏側で、彼の心を容赦なく苛むのは、逃れようのない「破綻」の予感であった。
六角からの独立。それはすなわち、自らの正室であり、今も奥の寝所で息を潜めている妻・梢の実家を裏切り、敵として平らげることを意味する。
(梢……。私はお前を、深く慈しんでいる。嘘偽りなく、この小谷の地でお前と生涯を共にしたいと願っている。……だが、私は浅井の嫡男なのだ)
梢が見せる無垢な笑顔、自分を信じ切っている清らかな瞳。それらを思い浮かべるたび、賢政の胸の奥で、まだ若い一人の男としての情が血を流した。自分が目指す野望の果てには、愛する者を「裏切り者の妻」とし、その心を木端微塵に打ち砕く未来が待っている。その理不尽な過酷さを独り抱え込み、賢政は深く息を吐き出した。白い息が、またたく間に冬の闇に消えてゆく。
「……新九郎様」
背後から、衣擦れの音と共に、静寂をそっと労るような柔らかな声が届いた。
振り返ると、打掛を軽く羽織った梢が、心配そうな面持ちで佇んでいた。月光を浴びたその姿は儚げで、今にも夜風に溶けてしまいそうに見えた。
「夜風が冷うございます。また、独りで考えごとをされておいででしたか」
梢は賢政の隣にそっと腰を下ろすと、持ってきた温かい衣を夫の肩へと掛けた。寄り添う二人の影が、白々とした月明かりの中で静かに重なり合う。
「すまぬ、梢。起こしてしまったか」
賢政はいつもの峻厳な表情を霧散させ、梢の少し冷えた手を優しく両手で包み込んだ。その手の温もりに、梢は愛おしそうに目を細め、賢政の肩にそっと頭を預ける。
「いいえ。新九郎様が隣におられないと、どうにも寂しくて。……ここ数日、お心が遠いところにあるように見えます。私にお話しできることなら、何でもお聞きいたしますのに」
いつも通りの、仲睦まじい夫婦の会話。しかし、その言葉の裏にある「遠さ」の意味を、賢政は痛いほど理解していた。賢政がどれほど優しく微笑み、彼女を大切に抱きしめようとも、彼が抱える「浅井の未来」の核心だけは、決して梢に明かされることはない。六角の姫である彼女には、絶対に言えないのだ。
「心配をかけたな。だが、案ずることはない。大殿様が観音寺へ赴かれ、家中をどうまとめるべきか、少し思索に耽っていただけだ。お前を不安にさせるようなことは何もない」
賢政は梢の額に優しく口づけを落とした。慈愛に満ちたその眼差しは、本物であった。しかし、最も肝心な真実を隠したその優しさは、皮肉にも、梢の胸に鋭い棘となって突き刺さった。
(……ああ、やはり今日も、新九郎様は何も仰ってくださらない)
梢は賢政の胸元に顔を伏せながら、悲痛な想いを独り、胸の奥底で押し殺していた。
梢は賢政を深く、狂おしいほどに愛していた。だからこそ、夫が自分に見せる微笑みの裏側で、誰にも明かせぬ恐ろしいほどの孤独と、血を吐くような苦悩に苛まれていることに気づいていた。そして、その苦悩の源が、自分の故郷である「六角家」との歪な関係にあるのだろうということまでも、聡明な彼女は肌で察していたのだ。
(私は、六角の娘。新九郎様を縛り、苦しめる呪いの一部なのだわ。……私が六角の姫でなければ、このお方はこれほど苦しまずに済んだのだろうか。私を愛してくださるからこそ、新九郎様は独りで苦しんでおいでになる……)
愛する夫の支えになりたい。その心の闇を共に分かち合いたい。だが、自分が六角の人間である以上、その核心に触れることは、夫の覚悟を鈍らせる刃になりかねない。己の存在そのものが夫の重荷になっているかもしれないという痛切な矛盾に、梢の心は独り、引き裂かれるように苦しかった。
何も知らない無垢な妻のふりをして、ただ寄り添うことしかできない。それが、彼女の選んだ、あまりにも切ない愛の形であった。
「梢」
賢政が、愛おしそうに梢の細い肩を抱き寄せる。
その手の温もりが、今は何よりも愛おしく、そして哀しかった。
「私は、お前をこの小谷に迎えることができて、本当に幸せだ。これだけは、どうか信じてくれ」
「はい。私も、新九郎様のお側におられるなら……たとえこの先、どのような闇が待っていようとも、何も恐れることはございませぬ」
偽りのない、二人の本心であった。お互いを誰よりも深く想い合っている。それなのに、二人の間には、いずれ決別という名の過酷な運命が横たわろうとしている。
月はただ静かに、互いの苦しみを知りながらも口にできぬ、若き夫婦の行く末を哀れむように照らし続けていた。
部屋の隅で仄かに揺れる行灯の火のように、二人の心は静かに、しかし確実に、来たるべき激動の日に向かって焦がされ、揺らめいていた。




