第十二話:茶室の密談、老将の覚悟
西暦1559年(永禄二年)・二月
大広間の喧騒から離れた浅井館の奥、竹林に囲まれた一棟の茶室。
炉にかけられた釜から「松風」と呼ばれる静かな湯沸しの音が響いている。先ほどまでの評定の熱気とは打って変わり、ここには静謐な時間が流れていた。
当主・浅井左兵衛尉久政と、家中から「大殿」様と慕われる田屋石見守明政は、膝を突き合わせて向かい合っていた。明政が手際よく点てた茶を、久政は静かに口に運ぶ。
「……良いお手前にございます、大殿様。張り詰めていた心が解きほぐされるようです」
久政が茶碗を置くと、明政は穏やかな笑みを浮かべ、しかしその眼光に宿る芯の強さを隠さずに切り出した。
「左兵衛尉。先ほどの大広間での話だが……やはり、六角への『連絡役』、この明政に行かせてくれぬか」
久政は眉をひそめ、再び首を振ろうとした。
「なりませぬ。先ほども申した通り、大殿様は亮政公の時代から我が一門を支える大黒柱。江北の国衆たちへの睨みも利かせていただかねばなりません。そのような重鎮を、実質的な人質として六角へ差し出すなど、浅井の弱腰を天下に晒すようなものにございます」
「いや、逆だ。逆なのだ、左兵衛尉」
明政は優しく、しかし諭すように言葉を続けた。
「かつて、お主と儂の間に家督を巡る不和の噂があった。六角が流したあの流言飛語を、今こそ逆に利用するのだ。儂が観音寺城へ赴けば、六角左京大夫は『浅井の家中から煙たがられた老将が、身の置き所に困って頼ってきた』と勝ち誇るだろう。亮政公の婿である儂が動くことで、六角は浅井を完全に御したと深く油断する。それこそが、浅井にとって最も欲しい『時』を生み出すはずだ」
文武両道に秀で、大局を見る老将ならではの深謀遠慮であった。久政は言葉を失い、畳を見つめた。明政は浅井の未来のために、自らを泥を被る役回りに処そうとしている。
長い沈黙の後、久政は深く息を吐き出し、ついに折れた。
「……大殿様の不退転の覚悟、平に恐れ入ります。そこまで仰るならば、此度の役目、お縋りいたします。ただし」
久政は顔を上げ、その瞳に当主としての冷徹な決意を宿した。
「万が一、六角が浅井に対して牙を剥き、大殿様に危険が及ぶようなことがあれば……我が方が裏で抱える鉢屋衆を直ちに動かします。いかなる手段、いかなる闇の手に拠ろうとも、必ずや大殿様をこの小谷の地へお救い出しすることを、ここに固くお誓いいたします」
鉢屋衆とは、浅井の影となりて情報収集や謀略を担う忍びの集団である。久政の並々ならぬ決意を聞き、明政は満足そうに頷いた。
「かたじけない。お主がそこまで儂を思ってくれるならば、観音寺城の退屈な隠居暮らしも悪くはなさそうだ」
緊迫した人質の件が定まると、明政はふっと表情を和らげ、茶碗に視線を落とした。
「それにしても……先ほどの評定での新九郎の機転、実に見事であったな。井口家との水利争いを建前にして、六角の家督譲渡の要求をのらりくらりとかわすとは。今年でようやく十五になる若子の知恵とは到底思えん」
久政の口元にも、自然と柔らかな笑みが浮かんだ。
「ええ。海北や雨森ら宿老たちを前にしても、将来の当主としての威厳を一切崩さず、真っ直ぐに見据え返しておりました。人質として観音寺城にいた日々は、決して無駄ではなかったようです。敵の懐で、人の上に立つ者としての処世と、冷徹な計算を身に付けたのでしょう」
「うむ。守役の喜右衛門が武芸と軍略を叩き込んだ甲斐もあったというもの。だが、それ以上に感心したのは、お主の手腕をしっかりと理解している点だ。お主が裏で井口越前守を完璧に膝下に組み込んでいるからこそ、あの建前が活きると見抜いていた」
明政は大殿として、久政のこれまでの泥臭くも確かな領国経営を誰よりも評価していた。表向きは六角に臣従の礼をとりながら、内実では江北の国衆たちを一つにまとめ上げてきた久政の努力。それがあるからこそ、次代の芽が育っている。
「新九郎は、浅井を大きく変えるやもしれませぬ」
久政が静かに言い、続ける。
「私は、先代亮政公が広げすぎた浅井の領国を、地道に、泥をすすりながら繋ぎ止めることしか出来なんだ。国衆たちの利害を調整し、浅井の根をこの江北の土に深く張らせる。それが私の役目であった。だが、あの子の瞳には、さらに遠くの景色が見えている。私が張った根から、新九郎は浅井という巨大な大樹を天へと伸ばすに違いありませぬ」
明政は茶室の窓から見える小谷山の山並みに目をやった。
「それで良いのだ、左兵衛尉。お主が土を耕し、新九郎殿が花を咲かせる。浅井の未来は明るい。来年、あやつが十六の年を迎える頃には、江北の風向きも大きく変わっておろう。儂は観音寺の特等席から、浅井の若き鷹が羽ばたく様を見守ることとしようぞ」
二人の老練な政治家であり、浅井を支える柱である男たちは、静かに笑い合った。




