第十一話:評定の火種、六角の無理難題
西暦1559年(永禄二年)・二月
前夜の和やかな歓迎の宴から一夜明け、山麓の浅井館の大広間は、冬の朝特有の張り詰めた静寂に包まれていた。
畳の上には、当主・浅井左兵衛尉久政を中心に、新九郎賢政が左脇に座る。明確な跡継ぎを表す席次である。
左手の一門の重鎮たちの席には、浅井玄蕃玄蕃允政澄や、外交僧である浅井福寿庵、浅井七郎井規、浅井与次亮親、そして田屋石見守明政が静かに座している。
政澄は、浅井氏庶流の出でありながら柔らかな物腰で、家中の融和をはかる欠かせぬ人物であり、浅井の長老としての役割を実直にこなしてきた。また、久政の補佐役として、内務に欠かせぬ影響を持っている。福寿庵は久政の実弟であり、一門の外交僧として重きをなしてきた。墨染めの衣を纏った福寿庵は、数珠を爪繰りながら、瞑想している。井規は、やや慎重すぎる嫌いはあるが、浅井の一手を預かる侍大将であり、浅井郡の入口を睨む横山城の城代を務めていた。亮親は浅井一門では、年若であるものの冷静に実を取る性格であり、家中の中で徐々に頭角を現しつつあった。一方、初代・亮政の娘婿であり、家中から「大殿」と尊称される明政は、かつて久政と家督を争ったという噂が流れた人物であった。しかしそれは、浅井の弱体化を狙った六角家による流言飛語に過ぎず、実際の二人の仲は極めて良好である。文武両道に秀でた老将の存在は、大広間に強い安心感を与えていた。
右手の重臣の席には、海北善右衛門綱親、赤尾美作守清綱、雨森弥兵衛尉清貞、遠藤喜右衛門直経ら宿老が居並んでいる。
綱親は、浅井家の軍事を預かる軍奉行として、亮政・久政の二代に使え、様々な策を立案し浅井の拡張に並々ならぬ功績がある。清綱は、浅井宿老の一人として、戦場のみならず政にも携わる、浅井の要たる老将である。清貞は、奏者として浅井久政の書状に連署するなど、久政に非常に重用されていた。この三名こそが「海赤雨の三将」と呼ばれ、他国にも知られる浅井きっての将領である。また、直経は新九郎の守役として、武芸・軍略を叩きこんだ人物であり、戦場での臨機応変な軍略は、他の追随を許さぬ知将であり、浅井の軍配を預かる事もあった。
一同の前に漂う重苦しい空気の理由は、今朝がた観音寺城の六角家から届いた一通の書状であった。
「……では、玄蕃允。六角からの書状を読み上げよ」
久政の促しに応じ、浅井玄蕃允政澄が書状を開き、読み上げる。
「一つ。新九郎の元服、並びに我が娘との婚儀、大慶に存じ奉る。これより両家の繋がりをいよいよ密にし、万事の連携を強めるため、江北一門の中から高徳なる『連絡役』を一名、速やかに観音寺城へ派遣されたし……」
政澄が読み終えるか終えぬかのうちに、広間に憤慨の声が沸き起こった。
「連絡役だと!? どこの口がそれを抜かすか!」
遠藤喜右衛門直経が拳で畳を叩いた。赤尾美作守清綱もまた、苦虫を噛み潰したような顔で吐き捨てる。
書状には「連絡役」という建前しか書かれておらぬが、実質は新たな人質を差し出せという脅しに他ならぬと、居並ぶ誰もが直感していた。
激昂する諸将の中、浅井福寿庵が数珠を静かに回しながら、柔らかな口調で言葉を挟んだ。
「……皆様、お怒りはごもっともですが、まずは心を落ち着けられませ。六角様も、少々焦っておられるのでしょう。梢様を輿入れさせた直後にこのような建前を並べ立てるなど、いかにも向こうが考えそうなことにございます」
福寿庵の落ち着いた物言いに、広間の熱が少しだけ引く。そこへ、大殿・田屋明政が静かに声をあげた。
「六角の狙いは見えすいておる。なれば、この明政が『連絡役』として観音寺城へ赴こう。老いた身なれど、先代亮政公の婿である儂ならば、人質としての価値も少なくなかろう。多少の作法も心得ておる。儂が適任よ」
明政の家を思う無私の志願に、宿老たちは粛然とした。しかし、久政は即座に首を振った。
「大殿様、それはなりませぬ。江北の国衆をまとめる上で、大殿の存在は不可欠にございます。この件はひとまず私が預かります。別の手を考えましょう」
久政の強い反対により、明政の志願は一時預かりとなった。
しかし、政澄が読み上げた二つ目の条項は、さらなる波紋を呼んだ。
「……二つ。新九郎賢政が目出度く成人した上は、左兵衛尉久政は速やかに家督を新九郎賢政へ譲り、隠居されるべし。これをもって、江北の支配をより盤石なものとせよ。とのことにございます」
「家督を譲れだと……!?」
海北善右衛門綱親の眼光が鋭く光る。老獪な久政を隠居させ、若年ゆえ扱いやすいと思われる賢政を当主に据えることで、浅井家を傀儡にしようという分かりやすい六角の画策であった。
「新九郎。お前はどう考える」
久政が、感情の読めない瞳で息子を見つめた。
賢政は居並ぶ親族衆・重臣に対し、将来の当主としての威厳を保ちながら、皆を真っ直ぐに見据え返した。そして、毅然とした口調で一同に告げる。
「父上、そして諸将。此度の家督譲渡の件、私は辞退すべきと考えます。六角へは拒絶ではなく、一つの『建前』を以てのらりくらりとかわし、引き延ばすのが上策かと」
「ほう、どのような建前だ」と問いかける久政に、賢政は冷徹な計算を口にした。
「……浅井家と、北近江の有力国人である井口家との間で続いている『水利争い(水論)』にございます。現在、この利害調整が極めて危機的な状況にある、と六角に報告するのです。私は未だ十五の若輩。今、当主が交代すれば、不満を募らせた井口家が越前の朝倉家と手を結び、国人一揆を引き起こす可能性が極めて高い。ゆえに、江北の仕置が定まるまでは、家督の譲渡は時期尚早である……と」
大広間に感嘆の空気が流れた。だが、この広間にいる浅井の最高幹部たちだけは知っていた。この「水利争いの危機」が、完全なる虚構であることを。
実際には、父・久政の地道な利害調整により、浅井家はすでに井口家をしっかりと膝下に組み込んでおり、両家の関係は極めて良好であった。
久政は息子の機転に、唇の端を微かに吊り上げた。
「なるほどな。井口家の当主であり、そなたの叔父でもある経親には、私から直接手を回し、万が一六角の耳に入る時には『水論で浅井と一触即発の状態にある』と口裏を合わせるよう、裏で手を握っておこう。向こうも浅井のためならば、喜んで一芝居打ってくれるはずだ」
(やはり父上だ。表向きは六角に臣従しているように見せかけ、内実では井口家のような国人を完全に手懐けている。この父が築いた盤石な土台があるからこそ、私はこの大広間で六角の手をのらりくらりとかわすことができる。六角の難題を逆手に取り時を稼ぎ、さらに力を蓄えねば)
「では、家督の件は新九郎の申す通り、引き延ばしの書状を送る。人質の件も含め、今日の評定はひとまずここまでといたそう。皆、各々の職務に戻られよ」
久政の決断により、緊迫した議論は幕を閉じた。諸将は一礼し、それぞれ大広間から退出してゆく。賢政もまた、威厳ある佇まいのまま、静かに部屋を後にした。
静まり返った大広間に残った久政のもとへ、田屋明政が穏やかな歩みで久政に近づいた。
「左兵衛尉殿。少し話したいことがあってな。別室で茶でも飲みながら、二人でゆっくりと語り合わぬか」
その眼差しには、浅井の行く末を案じる老将の深い情愛が込められていた。久政は表情を和らげ、深く頷いた。
「大殿様のお誘いとあれば、断る理由などございませぬ。参りましょう」
二人は立ち上がり、浅井の未来を裏で支える緊密な対話のため、静かに奥の茶室へと歩を進めた。




