過去
その日の放課後。
俺はなんとか全ての授業を乗り越え、机の上に広げていた教科書を鞄へ押し込んだ。
教室の中は、昼休みとはまた違う種類のざわめきに包まれている。友達同士で帰る約束をする者。部活見学に向かう者。さっそくクラスメイトと連絡先を交換している者。入学二日目の放課後というのは、思ったよりも人間関係の速度が速い。
俺はその流れの外側で、ひとり帰り支度をしていた。
教室の中央では、星宮莉乃が何人かのクラスメイトに囲まれている。
今日も彼女は、そこにいるだけで目立っていた。窓から差し込む夕方の光が髪に触れ、制服の輪郭を淡く縁取っている。女子からは部活見学の誘いを受け、男子からは遠慮がちに質問をされ、そのすべてに星宮は柔らかく笑って応じていた。
完璧な学園アイドル。
その姿を遠目に見ながら、俺は鞄を肩にかけた。
俺には関係ない。
今日は帰ったら、録り溜めているアニメを消費する。それから、今週の土曜日に買うカードが本当に必要かどうかを吟味する。デッキに足りないカードは確かにあるが、月五千円の小遣いで運用する以上、勢いだけで買うわけにはいかない。
そういうことを考えているほうが、俺にはずっと落ち着く。
俺は星宮に声をかけず、教室を出た。
廊下は思ったより静かだった。
部活へ向かう生徒たちの声は遠く、教室に残っている生徒も多いのだろう。昇降口へ向かう途中、窓の外に見える校庭では、運動部らしき上級生たちが準備を始めていた。
新しい学校。
新しいクラス。
新しい人間関係。
そのすべてが、俺の周りだけを素通りしていくような気がした。
昇降口に着くころには、周囲にほとんど人はいなかった。
靴箱の並ぶ空間に、俺の足音だけが響く。上履きを脱ぎ、ローファーへ履き替える。その何でもない動作の途中で、ふと昔の友達の顔が浮かんだ。
あいつらは今ごろ、どうしているのだろう。
別の高校で、俺以外のメンバーはうまくやれているのだろうか。きっとやれている。俺だけが違う学校に進んだだけで、あいつらはあいつらで新しい輪を作っているはずだ。もともと俺よりずっと人付き合いがうまい連中だった。
置いていかれた。
そんな言葉が、頭の中に浮かんだ。
違う。俺が自分でここに来た。高校を選んだのも、別々になるとわかっていたのも俺だ。それなのに、ひとりで靴を履き替えているだけで、世界から一歩遅れているような気分になる。
そのとき、後ろから足音がした。
「待って!」
手首を掴まれる。
振り向いた先に、星宮がいた。
走ってきたのか、肩が小さく上下している。長い髪が少し乱れ、頬には薄く赤みが差していた。さっきまで教室の中心で完璧に笑っていた彼女とは違う、余裕のない顔だった。
「星宮さん?」
「幼馴染を置いて帰るとか、意味わからない」
「いや、それは……」
幼馴染じゃない。
そう言おうとした。
けれど、言葉は喉の手前で止まった。
昇降口の静けさが、さっきまで考えていたことを濃くする。友達と別れたこと。自分だけ別の場所にいること。誰かに置いていかれたような感覚。
俺は、星宮に置いていかれたわけではない。
むしろ、俺が星宮を置いて帰ろうとしていた。
なのに胸の奥にあった孤独感が、彼女の言葉に変な形で反応した。
星宮は俺の顔を覗き込んだ。
「なにかあった?」
「別に」
「別に、って顔じゃないよ」
彼女の声は柔らかかった。
それが、余計にきつかった。
星宮は俺のことを何も知らない。中学で何があったのかも、俺がどうして人前で笑うタイミングを気にするようになったのかも、ひとりでいることに安心を覚える理由も知らない。
それなのに、彼女は知っているみたいな距離で踏み込んでくる。
「何かあったなら言ってほしいな。私、清太の幼馴染だもん」
夕焼けが、昇降口の床を橙色に染めていた。
その光の中で、星宮は優しく笑っていた。綺麗で、柔らかくて、こちらが弱っていることを見透かしたような顔。
ラブコメなら、ここで救われる場面なのかもしれない。
でも、ここは現実だ。
漫画でも小説でもない。
星宮莉乃は、俺の本当の幼馴染ではない。
「俺の何がわかるんだよ」
声が出た。
自分でも驚くくらい、硬い声だった。
星宮の目が少しだけ開く。
止まれ。
そう思った。
けれど、一度漏れたものは止まらなかった。
「俺の過去も何も知らないくせに。幼馴染でも何でもないのに、わかったみたいに言うなよ!」
昇降口に、俺の声が響いた。
言った瞬間、体の奥が冷えた。
星宮は俯いた。
手首を掴んでいた指から、少しだけ力が抜ける。長い髪が頬にかかり、表情が見えなくなった。肩が動かない。呼吸すら、止めているように見えた。
やってしまった。
完全に八つ当たりだった。
星宮が悪いわけではない。踏み込まれたくなかったのは俺の都合で、過去を知らないのも当然だ。この前会ったばかりなのだから。なのに、俺は彼女に怒鳴った。
胸の奥で、罪悪感が遅れて広がる。
それでも、俺は逃げる言葉を選んでしまった。
「もうわかっただろ。俺はこういう奴なんだ。だから、もう関わるのはやめてくれ」
立ち去ろうとした。
今度こそ終わらせるべきだと思った。
星宮莉乃のような人間が、俺の厄介な部分に付き合う必要なんてない。俺も、彼女の重さに振り回される必要はない。ここで離れれば、お互い傷が浅く済む。
そう思ったのに。
星宮の手が、もう一度俺を掴んだ。
今度は手首ではなく、両腕だった。
「なんで」
声が震えていた。
俺は振り向く。
星宮は顔を上げていた。
目元に涙が溜まっている。けれど泣き崩れるわけではない。必死にこらえようとして、それでもこぼれてしまった涙が、頬を一筋伝っていた。
「なんで、そんな寂しいこと言うの」
「星宮さん……」
「何かあったなら聞くよ。清太の過去も、何があったのかも、全部聞くから。知らないなら、今から知るから」
彼女は一歩近づいた。
足取りは危うかった。いつもの完璧なアイドルの歩き方ではない。縋るように、逃げられたくないものへ手を伸ばすように。
「だから、私のことを見捨てないで」
その言葉に、息が詰まった。
見捨てる。
大げさな言葉だと思った。
数日前会ったばかりで、今日少し話しただけの関係だ。俺が離れたところで、星宮の人生にはいくらでも人がいる。クラスメイトも、仕事仲間も、ファンも、彼女を求める人間なら山ほどいるはずだ。
なのに、星宮の目は本気だった。
俺がここで手を振り払えば、本当に何かが壊れる。そう思わせる目だった。
彼女は俺の両腕を掴んだまま、距離を詰める。
近い。
涙で濡れた睫毛も、浅くなった呼吸も、かすかに甘いシャンプーの匂いも、全部が近い。演技に見えなくもない。いや、星宮莉乃なら泣く演技くらい簡単にできるのかもしれない。
けれど、腕を掴む指先が震えていた。
その震えだけは、演技には見えなかった。
「清太の過去を教えて」
星宮は、俺を見上げた。
「今は、それ以上は何も求めないから」
その言い方はずるかった。
今は。
また、その言葉。
けれど、今の俺には突っ込む余裕がなかった。
俺の悩みなんて、ちっぽけなものなのかもしれない。過去を引きずって、自分だけが取り残されたような顔をして、会ったばかりの女の子に八つ当たりした。どうしようもない。
星宮の涙を見て、ようやくそれがわかった。
「星宮さん」
「なに?」
「さっきはごめん」
俺は、彼女の手をそっと外した。
拒絶ではなく、謝るために距離を取る。
そして、深く頭を下げた。
「完全に俺が悪かった。星宮さんは何も知らなくて当たり前なのに、俺が勝手に苛立って、八つ当たりした。許してくれなんて言わない。ただ、できれば忘れてほしい」
しばらく返事はなかった。
昇降口の外から、部活の掛け声が遠く聞こえてくる。夕焼けの光が少しずつ濃くなり、床に伸びる影が長くなっていた。
「清太」
名前を呼ばれて、俺は顔を上げた。
星宮は涙を指で拭っていた。
まだ目元は赤い。けれど、その口元には小さな笑みが戻っている。完璧な笑顔ではない。泣いた後の、少し不格好な笑顔だった。
「忘れないよ」
「……え?」
「清太が怒ったことも、謝ってくれたことも、私に頭を下げてくれたことも、忘れない」
星宮は一歩近づいた。
今度は腕を掴まない。
ただ、逃げ道を塞ぐように俺の前に立つ。
「だって、それも清太でしょ?」
胸の奥が、嫌な音を立てた。
責められるほうが楽だった。
怒ってくれたほうが、俺も自分を悪者にできた。
けれど星宮は、俺の嫌な部分まで拾い上げようとする。拒絶しても、怒鳴っても、それを理由に離れるのではなく、むしろ知ろうとしてくる。
重い。
怖い。
でも、その重さの中に、逃げ場のない温度があった。
「俺にできることがあれば、言ってください。できる限り、責任は取ります」
星宮の目が、ぴくりと動いた。
「責任?」
まずい。
言葉選びを間違えた気がした。
星宮は一度だけ目を伏せた。
頬に残った涙の跡を指で拭い、ゆっくり顔を上げる。その表情はさっきまでの弱々しさとは少し違っていた。泣いていたはずなのに、瞳の奥に小さな光が戻っている。
いや、戻りすぎている。
「じゃあ……」
星宮は優しく笑った。
「『青春いらない』の最新刊、一緒に買いに行こうよ」
「え?」
「私、もっと清太のことを知りたい。好きな作品も、好きなカードも、一人になりたくなる理由も。これは幼馴染として知っておきたい」
「幼馴染としては余計です」
「じゃあ、責任として」
逃げ道を塞がれた。
俺は言葉に詰まる。
星宮は涙の残る目元のまま、じっとこちらを見ていた。泣いた直後とは思えないほど、表情は穏やかだ。けれど、その穏やかさが逆に怖い。こちらが「責任」と言った瞬間、その言葉を大切そうに抱え込み、約束へ変換してしまった。
この人、本当に油断ならない。
「……わかりました。その日はよろしくお願いします」
俺がそう言うと、星宮の顔がぱっと明るくなった。
「うん!」
さっきまで泣いていたとは思えないほどの笑顔だった。
だが、頬にはまだ涙の跡が残っている。そのアンバランスさが、妙に胸に残った。綺麗で、重くて、面倒くさくて、危うい。星宮莉乃は、そういう感情を一つの顔に同居させてくる。
俺は小さく息を吐いた。
周りに人がいなくて本当によかった。
もし誰かに見られていたら、有名アイドルを泣かせた男として、俺の高校生活は完全に終わっていた。いや、今も終わりかけている気はする。だが少なくとも、致命傷ではない。
星宮は俺の横に並んだ。
今度は手首を掴まない。
けれど、制服の袖がほんの少し触れる距離に立っている。
「ねえ、清太」
「なんですか」
「帰ろ」
「……はい」
「今日は一緒に」
俺は反射的に断ろうとした。
けれど、星宮の目元がまだ少し赤いことに気づいてしまった。
断れば、またあの顔をさせるかもしれない。
そう思った時点で、俺の負けだった。
「途中までなら」
「うん。途中まででいいよ」
星宮は嬉しそうに笑う。
その横顔を見ながら、俺は確信した。
これは償いだ。
俺が八つ当たりして、彼女を傷つけた。その責任として、週末に一緒に本屋へ行く。ただそれだけだ。決してラブコメ的なデートではない。ましてや、幼馴染イベントでもない。
そう自分に言い聞かせる。
昇降口を出ると、夕方の風が少し冷たかった。
星宮は隣で、まだ小さく笑っている。
そして俺の知らないところで、存在しない幼馴染の思い出が、またひとつ彼女の中に増えてしまった気がした。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。
応援が次回更新の励みになります!




