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マイホーム

 昼休み。


 チャイムが鳴った瞬間、教室の空気は一気にほどけた。


 机を寄せ合う音。弁当箱の蓋を開ける音。購買へ走る男子の足音。昨日まで他人だったはずのクラスメイトたちは、たった二日目にしてそれぞれの昼休みグループを形成し始めている。


 俺はその波に乗れなかった。


 理由など答える必要はない。


 単に、友達ができなかったからである。


 とはいえ、別に構わない。俺は一匹狼を好むタイプの人間だ。いや、好むというより、一人でいるほうが呼吸がしやすい。誰かの会話に相槌を打つ必要もない。笑うタイミングを探さなくていい。弁当の中身を見られて、気の利いた反応を返す必要もない。


 俺は鞄から弁当を取り出し、教室のざわめきに紛れるように席を立った。


 もちろん、屋上へ向かうわけではない。


 この世界はラブコメではない。学校の屋上で、メインヒロイン級の美少女と二人きりで昼食を取るイベントなど、現実にはそうそう存在しない。そもそも屋上は大抵立ち入り禁止だし、そういう美少女は周囲に集まる華やかな人間たちと昼を食べるに決まっている。


 現実の一匹狼に必要なのは、風通しのいい屋上ではない。


 誰にも見つからない、地味で、狭くて、落ち着ける場所だ。


 そして俺は、入学式の日にすでに目をつけていた。


 校舎裏にある二つの倉庫。その隙間にできた、忘れられたような小さな空間。人ひとりが座るには十分で、奥には椅子代わりになりそうな大きめの岩まである。日陰で少し肌寒いが、逆にそれがいい。ここなら人目を避けられる。


 俺はその空間に足を踏み入れた。


 左右を倉庫の壁に挟まれ、上だけが細長く空いている。昼の光は白く切り取られ、風に揺れた桜の花びらが一枚だけ地面に落ちていた。


「よし。ここを俺のマイホームと名付けよう」


 小声でそう呟き、俺は岩に腰を下ろした。


 弁当箱を開ける。


 卵焼き、唐揚げ、冷凍食品のコロッケ、隅に詰められたブロッコリー。母親の弁当は派手ではないが、安心感がある。俺はスマホでSNSを適当に眺めながら、箸を動かした。


 静かだった。


 教室の喧騒も、廊下の足音も、ここまでは薄くしか届かない。ようやく自分の時間が戻ってきた気がした。


 そのはずだった。


「清太、見つけた」


 聞き覚えのありすぎる声が、入口のほうからした。


 俺は箸を止めた。


 ゆっくり顔を上げる。


 倉庫と倉庫の隙間。そのわずかな入口に、星宮莉乃が立っていた。


 昼の光を背に受けた彼女は、妙に非現実的だった。制服のリボンはきちんと結ばれ、長い髪は肩の上で柔らかく流れている。こんな狭くて埃っぽい場所にいるだけで、背景のほうが間違っているように見えた。


 いや、間違っているのは状況だ。


 ここは新入生が偶然見つけられる場所ではない。ましてや、昨日今日で校内に慣れたばかりの有名アイドルが辿り着ける場所では絶対にない。


「な、なんでここが」


 俺がそう言うと、星宮は少しだけ首を傾げた。


「なんでって、幼馴染だからかな」


「幼馴染には索敵能力が標準装備されてるんですか」


「清太が行きそうな場所を考えたら、ここだっただけ」


 さらっと怖いことを言った。


 星宮は俺のほうへ歩いてくる。革靴が小さな砂利を踏む音が、やけに近く響いた。彼女の手には弁当袋がある。つまり、偶然通りかかったわけではない。


 最初から、ここで食べるつもりで来たのだ。


「ねえ、一緒に食べてもいいかな」


「……いや、俺は一人のほうが」


「ダメだよ」


「は?」


 あまりにも自然に却下された。


 星宮は俺の隣に立ち、こちらを覗き込むように目を細めた。距離が近い。狭い空間だから仕方ないのかもしれないが、この人の場合、たぶん広い場所でも近い。


「せっかく私という幼馴染がいるのに。一人は寂しいよ?」


「幼馴染じゃないし、寂しくもないです」


 俺は箸を置き、少しだけ息を吐いた。


 寂しくない。


 それは強がりではなかった。


 一人でいることは、俺にとって逃げではあるが、同時に安心でもある。中学のころ、教室で理不尽に怒られたときのこと。公衆の面前で何も言えず、周囲の視線だけがこちらに刺さったこと。誰かと関わる場所では、いつも自分の形を調整しなければならなかった。


 明るくしすぎず、暗くなりすぎず。


 逆らわず、目立たず。


 笑うところでは笑い、黙るところでは黙る。


 そうやって外用の仮面をつけていると、いつの間にか自分の顔がどこにあるのかわからなくなる。


 だから一人が好きだった。


 一人でいれば、誰かに合わせなくていい。誰かの機嫌を間違って踏むこともない。


「俺は、一人が好きなだけです」


 そう言うと、星宮はしばらく黙った。


 彼女は俺の顔を見ていた。いつもの綺麗な笑顔はない。代わりに、何かを見極めようとするような静かな目をしている。


 やがて、星宮は小さく頷いた。


「ふーん、そっか」


 わかってくれたのか。


 俺は少しだけ安心した。


 しかし、それは早計だった。


「じゃあ、私も一人で食べようかな」


 そう言って、星宮は当然のように俺の隣へ腰を下ろした。


 岩の隣、倉庫の壁際。ほとんど肩が触れそうな距離。


「……ここで?」


「うん。私もここで一人で食べる」


「それは一人とは言わないのでは」


「清太は一人で食べてる。私も一人で食べてる。たまたま隣にいるだけ」


 理屈が強引すぎる。


 だが、星宮は満足そうに弁当袋を開けている。俺が何を言っても動かない気配があった。下手に揉めると、それはそれで面倒な方向へ転がる。


 俺は諦めて、弁当に視線を戻した。


 ただ、無理だった。


 隣に星宮莉乃がいる。


 テレビや広告で見るような有名アイドルが、倉庫と倉庫の隙間で、俺の横に座って弁当箱を開けている。気にするなというほうが無理だ。


 彼女の弁当は、見た目からして整っていた。小さなおにぎりが二つ。彩りのいい野菜。卵焼き。小さなハンバーグ。量は控えめだが、一つ一つが丁寧に詰められている。


「星宮さん、教室で食べなくていいんですか」


「莉乃」


「星宮さん」


「……」


 星宮の箸が止まった。


 彼女は弁当箱を見下ろしたまま、数秒黙る。指先が箸を握り直し、口元が小さく結ばれた。怒っているわけではない。けれど、また何かを飲み込む顔だった。


「……みんな、私と食べたいって言ってくれたよ」


「じゃあ、そっちで食べたほうが」


「清太も、そう思うんだ」


 声が少しだけ低くなった。


 しまった、と思ったときには遅かった。


 星宮は弁当の卵焼きを見つめたまま、薄く笑った。きれいなのに、どこか温度のない笑い方だった。


「みんなのところに行けばいいって。清太は、一人が好きだから。私は、他の人のところに行けばいいって」


「いや、そういう意味じゃ」


「じゃあ、どういう意味?」


 顔を上げた星宮の瞳が、まっすぐこちらを捉えた。


 面倒くさい。


 本当に面倒くさい。


 こちらの何気ない言葉を、彼女はすぐに「拒絶」として受け取る。俺が距離を置こうとするたび、彼女の中で何かがきしむ。そのくせ、泣いたり怒ったりはしない。ただ静かに笑って、こっちの罪悪感を的確に削ってくる。


「……星宮さんが無理してないなら、それでいいです」


 俺がそう言うと、彼女の目が少しだけ揺れた。


「私の心配?」


「一応」


「幼馴染だから?」


「人として」


「そっか」


 星宮は箸で卵焼きをつまみ、小さく口に運んだ。


 それから、ぽつりと言う。


「今は、人としてでもいいよ」


 今は。


 またその言葉だ。


 俺はもう突っ込む気力がなくなり、唐揚げを口に入れた。


 しばらく、二人で黙って弁当を食べた。


 倉庫の隙間は静かで、時折、遠くからグラウンドの声が聞こえる。風が通るたび、星宮の髪が少し揺れて、シャンプーの匂いがふわりとした。


 居心地が悪い。


 悪いはずなのに、不思議と息苦しくはなかった。


 彼女が無理に話しかけてこないからかもしれない。さっきまで押しが強かったくせに、弁当を食べている間だけは、妙に静かだった。


 俺がスマホを伏せると、星宮がちらりと見た。


「ねえ、清太。『青春いらない』、原作どこまで読んでる?」


 その話題を振られて、俺の中の警戒が少し緩んだ。


「知ってるどころか、普通にファンです。最新話まで追ってます」


「やっぱり!」


 星宮の顔が明るくなる。


 その変化は本当にわかりやすかった。ついさっきまで面倒な空気をまとっていたのに、好きな作品の話になった途端、彼女は年相応の少女みたいに身を乗り出してくる。


「じゃあ、三巻の文化祭回は?」


「神回です。あそこで主人公がヒロインの嘘に気づくのがいい」


「わかる。気づいてるのに、あえて問い詰めないんだよね」


「そう。相手が自分から言えるまで待つのがいい」


「清太、そういうの好きそう」


「まあ、好きですね」


 言ってから、少しだけ驚いた。


 普通に返していた。


 外用の仮面をつけていない声だった。


 そこから話は止まらなかった。


 推しキャラは誰か。最終的に誰と誰がくっつくのか。二期最終回の演出は原作の空気をどこまで再現できていたのか。主人公が鈍感すぎるのではなく、実は相手の気持ちを受け止める覚悟がないだけなのではないか。


 気づけば、俺はかなり早口になっていた。


 星宮も同じだった。


 有名アイドルの星宮莉乃ではなく、好きな作品について語るただのオタクだった。綺麗な顔で、普通に解釈違いに眉を寄せ、推しの名場面を語るときだけ声が少し弾む。


 俺はいつの間にか笑っていた。


 それに気づいた瞬間、少しだけ怖くなる。


 こんなに気楽に話したのは、久しぶりだった。


 友達と遊んだときの楽しさとは違う。あれはあれで大切だけれど、どこかでテンションを合わせていた。今は、作品の話題が間にあるせいで、余計な気遣いを忘れていた。


 星宮莉乃という存在が、俺の仮面を無理やり剥がしたのではない。


 彼女はただ、俺が仮面をつけなくてもいい話題を差し出してきた。


「良かった」


 ふいに星宮が言った。


「『青春いらない』の話、清太とできて」


「こっちこそ。久しぶりに気楽に話せました」


 そう答えた瞬間、星宮の表情が止まった。


 さっきのような痛みではない。


 もっと危うい、甘い何かだった。


 彼女は弁当箱を膝の上に置いたまま、俺を見つめている。瞬きが少ない。唇がほんの少しだけ開いて、それから閉じる。頬に、ゆっくり熱が上がっていく。


「……気楽」


「え?」


「清太、私といると気楽なんだ」


「作品の話をしてるときは、です」


「でも、私と話してた」


「それはまあ、そうですけど」


 星宮は下を向いた。


 長い髪が頬を隠す。けれど、耳まで赤くなっているのは隠せていなかった。


 そして彼女は、弁当箱をそっと横に置いた。


「清太」


「なんですか」


「今の、もう一回言って」


「何を」


「私と話すの、気楽って」


「作品の話をしてるときはって言いました」


「そこは省略していいから」


「よくないです」


 星宮は少しだけ唇を尖らせた。


 けれどすぐに、何かを思いついたように目を細める。


「じゃあ、私は清太の安心できる場所になれる?」


「話が急に重い」


「だって、一人が好きなのは安心できるからなんでしょ?」


 俺は黙った。


 星宮はじっと俺を見る。


 さっきまでのオタクトークの熱は残っている。けれど、その奥に別のものが混ざっていた。俺が一人でいたい理由を、彼女は思ったよりちゃんと聞いていたらしい。


「なら、私といても安心できれば、一人じゃなくてもいいよね」


「理屈が強引です」


「強引じゃないよ。私、ちゃんと考えた」


 星宮は俺の弁当箱に視線を落とした。


 食べ終わった唐揚げのスペース。端に残ったブロッコリー。何の変哲もない弁当を、彼女はなぜか大切な情報みたいに見ていた。


「清太が一人でいる場所を探してるなら、私もそこに行く。清太が好きな作品の話をするなら、私も話す。清太が安心できるものを、私もちゃんと覚える」


「それ、ちょっと怖いです」


 正直に言った。


 星宮の表情が、ほんのわずかに強張った。


 またやってしまったかと思ったが、今度の彼女は逃げなかった。笑顔で誤魔化すこともせず、俺の目を見たまま、小さく頷いた。


「うん。怖くならないようにする」


「そういう意味じゃ」


「でも、清太が一人でどこかに消えるほうが、私は怖いよ」


 その言葉は、冗談ではなかった。


 倉庫の隙間の空気が、少し冷える。


 星宮は自分の手を見下ろしていた。指先が、制服のスカートを軽く掴んでいる。


「今日の昼休み、清太が教室から出ていくの見たとき、少し嫌だった」


「嫌?」


「うん。私が知らない場所に行くのが嫌だった。清太が一人になりたいってわかってても、そこに私がいないのが嫌だった」


「それ、だいぶ重いですよ」


「知ってる」


 星宮は顔を上げた。


 その表情は、綺麗だった。


 でも、ただ綺麗なだけではなかった。笑顔の奥に、独占欲みたいなものが薄く沈んでいる。澄んだ水の底に、黒いインクが一滴落ちたような目だった。


「でも、清太が悪いんだよ」


「俺?」


「私に、名前を聞かずに優しくしたから。私のこと、星宮莉乃じゃなくて、普通の女の子みたいに扱ったから。そんなのされたら、忘れられないよ」


 俺は言葉を失った。


 忘れられない。


 その重さを、彼女はさらりと口にした。


 あの日の俺は、ただ困っている人を助けただけだった。名前を聞かなかったのも、優しさというより踏み込む勇気がなかったからだ。


 けれど、星宮にとっては違った。


 彼女の中で、俺の何気ない行動は勝手に意味を持ち、勝手に育ち、今こうして俺の隣に座っている。


 面倒くさい。


 本当に面倒くさい。


 けれど、その面倒くささを完全に否定できないくらいには、彼女は寂しそうだった。


「……俺は、星宮さんを拒絶したいわけじゃないです」


 星宮の指先が止まった。


「ただ、急に全部こっちへ寄せられると困るんです」


「うん」


「だから、今日みたいに作品の話をするくらいなら、別に」


「明日も来ていい?」


「早い」


 星宮の目がまた少し揺れた。


 俺は慌てて言葉を足す。


「いや、来るなとは言ってません。ただ、毎日当然みたいに来られると、その、困るというか」


「じゃあ、清太が一人になりたい日は、少し離れて座る」


「ここに来る前提なんですね」


「一人で食べるだけだから」


「隣で?」


「少し離れて」


 星宮は真面目な顔で言った。


 たぶん本気で譲歩しているつもりなのだろう。


 俺は諦めて、弁当箱の蓋を閉じた。


「……好きにしてください」


 星宮の顔が、ふっと明るくなった。


 けれど今度は派手に喜ばなかった。彼女はその喜びを大事に抱えるように、弁当箱を胸元に寄せた。


「うん。好きにする」


「言い方」


「清太の隣、好きにする」


「もっと悪化した」


 星宮は小さく笑った。


 昼休みの終わりを告げる予鈴が、遠くから聞こえた。


 倉庫の隙間にいた時間は、思ったよりあっという間だった。俺は弁当箱を片づけ、立ち上がる。星宮も同じように弁当袋を持って立ち上がった。


 教室へ戻る前、星宮が俺の袖を軽くつまんだ。


「清太」


「なんですか」


「この場所、秘密にしよ」


「元々そのつもりです」


「二人だけの?」


「俺のマイホームです」


「じゃあ、私の別荘」


「勝手に所有権を発生させないでください」


 星宮は楽しそうに笑ったあと、ふいに声を落とした。


「でも、本当に秘密ね」


 その言い方に、俺は少しだけ引っかかった。


 彼女は入口のほうを見ていた。校舎側へ続く細い道。誰かに見られていないか確認するような目だった。


「他の人が来たら、清太が一人でいられなくなるから」


「……それは助かりますけど」


「それに」


 星宮は俺を見た。


 いつもの綺麗な笑顔を浮かべる。


 けれど、その目だけが少し深かった。


「清太が、ここで誰か別の子と食べてたら嫌だから」


 空気が止まった。


 冗談のように言っている。


 けれど、冗談だけではない。


 俺が何か返す前に、星宮は一歩先に歩き出した。


「戻ろ、清太。午後の授業、遅れちゃう」


 その背中を見ながら、俺は小さく息を吐いた。


 星宮莉乃。


 学園のトップアイドル。


 俺の存在しない幼馴染を名乗る、綺麗で、重くて、面倒くさい少女。


 昼休みの終わり、俺はひとつ理解した。


 俺がようやく見つけたマイホームは、もう完全な一人用ではなくなったらしい。


 しかも新しい同居人は、笑顔で鍵を複製してくるタイプだった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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