自称
次の日。
入学式を終えた翌朝、俺はいつもより少し早く目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む朝日は、散らかった部屋の惨状を容赦なく照らしている。床に転がるティッシュ。脱ぎっぱなしのパーカー。机の上で塔みたいに積まれた漫画とカードの束。昨日まではただの自室だったそれが、今日はなぜか逃げ場のように見えた。
学校に行きたくない。
正確に言えば、学校そのものが嫌なわけではない。問題は、そこに星宮莉乃がいることだった。
学園のトップアイドル。いや、正確にはすでにテレビや広告に出ている有名アイドル。その星宮が、なぜか俺を幼馴染みたいに扱ってくる。
昨日、俺は一応、釘を刺したはずだった。
幼馴染ではない。普通に話しかけるならいい。そう言ったはずだ。
なのに、クラスメイトたちの中ではすでに「高原清太と星宮莉乃は幼馴染みたいな関係」という情報が半分くらい定着していた。半分どころか、昼を越えたころには「実は昔から特別な関係だったらしい」くらいまで育っている可能性もある。
噂というものは、湿った場所のカビより成長が早い。
俺は制服に着替えながら、深いため息を吐いた。
ラブコメ漫画やアニメなら、美味しい展開なのだろう。学園のアイドルが、冴えない主人公にだけ懐いてくる。周囲がざわつき、本人は困惑しつつも少しずつ距離を縮めていく。
画面の向こうなら大好物だ。
だが現実でそれをやられると、まず胃に来る。
俺は鞄に教科書を詰め、昨日返されたパーカーが入っていることを確認してから部屋を出た。なぜ確認したのかは自分でもわからない。けれど、置いていくには少し落ち着かなかった。
玄関で靴を履き、外へ出る。
春の朝は、昨日より少しだけ冷たかった。住宅街の塀の上には桜の花びらが薄く積もり、遠くから登校中の生徒たちの声が聞こえてくる。俺はその中に紛れながら、スマホで『学園ラブコメに青春はいらない!!』、通称『青春いらない』の最新刊情報を確認した。
発売日は今週の日曜日。
その前日の土曜日には、カードショップへ行く予定もある。今のデッキに足りないカードを揃えなければならない。月々の小遣いは五千円。ラブコメ新刊とカード資産の両立は、もはや国家予算並みに慎重な配分が求められる。
そんなことを考えているうちに、校門が見えてきた。
足が少しだけ重くなる。
この門をくぐれば、また面倒なことが起きるかもしれない。いや、起きるかもしれないではない。星宮莉乃がいる時点で、何かが起きる確率は高い。
俺が校門前で一瞬だけ立ち止まった、そのときだった。
「おはよ、清太」
背後から、聞こえてほしくなかった声がした。
振り向く。
そこに星宮莉乃が立っていた。
朝日を受けた長い髪が、薄い茶色に透けている。制服は昨日と同じはずなのに、彼女が着ると新品の広告写真みたいに見える。通り過ぎる生徒たちが、誰もが一度は視線を向けた。
だが、俺の目に最初に入ったのはそこではなかった。
彼女の肩が、ほんの少し上下していた。
走ってきたわけではない。けれど、待っていた人間がようやく現れたときの、張り詰めた呼吸だった。
「おはようございます、星宮さん」
俺は目を合わせきれず、少しだけ視線を横に逃がした。
すると、星宮の頬がわずかに膨らんだ。
「ねえ、私のことちゃんと見て」
「見てます」
「見てない。清太、私の肩のあたり見てる」
バレていた。
芸能人の観察力、怖い。
仕方なく顔を見ると、星宮は満足そうに目を細めた。たったそれだけで、朝の校門前が妙に眩しくなる。周囲の視線も一段鋭くなった気がした。
「私たち、幼馴染なんだよ?」
「いや、俺たちは幼馴染じゃ――」
言いかけた瞬間、星宮の表情が止まった。
笑顔が消えたわけではない。
ただ、目元の熱がすっと奥に引っ込んだ。唇が薄く開き、何かを言おうとして、結局閉じる。鞄の持ち手を握る指先だけが、少し強くなった。
その変化は小さい。
けれど、近くで見ている俺にはわかった。
星宮莉乃は、人前で崩れることに慣れていない。だから崩れないようにする。整えた顔の裏で、ほんの少しだけ呼吸を浅くする。
それが、余計に面倒だった。
怒ってくれたほうが楽なのに。
不満をぶつけてくれたほうが、こちらも言い返しやすいのに。
彼女は黙って傷ついたような空白を作る。その空白を、周囲の視線が勝手に埋めていく。
今も、校門を通る生徒たちがちらちらとこちらを見ていた。星宮莉乃が、知らない男子に拒絶されている。そんな絵面に見えているのだろう。
最悪だ。
「あの、俺が星宮さんを助けたのは偶然です。だから、その……」
「偶然なら、なかったことになるの?」
星宮の声は静かだった。
「え?」
「偶然なら、清太が私の前に来てくれたことも、漫画を拾ってくれたことも、名前を聞かないでいてくれたことも、全部、何でもないことになるの?」
朝の空気が、少しだけ重くなった気がした。
彼女は俺を責めるような声を出していない。むしろ、言葉を選んでいる。けれど、そのぶん一つ一つが妙に深く刺さる。
「私にとっては、何でもなくなかったよ」
星宮はそう言って、俺の鞄に視線を落とした。
昨日返したパーカーが、そこに入っていることを知っているみたいに。
「清太はすぐ、線を引くよね。ここから先は来ないでくださいって。私が近づくと、すぐ逃げる」
「それは……普通、逃げますよ。この前会ったばかりの有名人に幼馴染扱いされたら」
「でも、清太は逃げなかったよ。あの日、あの人たちからは」
言い返せなかった。
星宮は一歩近づいた。
近い。
昨日からずっと思っているが、この人は距離の詰め方が明らかにおかしい。校門前で、登校中の生徒が周囲にいる状況で、普通にこちらの袖に触れてくる。
指先が、制服の袖をつまんだ。
「私、清太のそういうところ、好きだよ」
「っ……!」
周囲の空気が跳ねた。
いや、俺の心臓も跳ねた。
朝の校門前で、学園のトップアイドルが、冴えない男子に「好き」と言った。しかも袖をつまみながら。これを目撃した生徒たちの脳内で、今まさに噂が爆発的に増殖しているに違いない。
「星宮さん、その言い方は誤解を――」
「誤解じゃないよ」
星宮は即答した。
まっすぐだった。
まっすぐすぎて、俺のほうが視線を逸らしたくなる。
「でも、今の清太には重いだろうから、幼馴染ってことにしてあげてるの」
「してあげてる?」
「うん。だって幼馴染なら、そばにいても不自然じゃないでしょ?」
その理屈はおかしい。
おかしいのに、星宮は本気の顔をしていた。
いや、本気だからこそおかしい。
彼女の中では、昨日の出来事が何か決定的なものになってしまっている。たった一度助けただけで、たった一度名前を聞かなかっただけで、俺の隣に立つ理由を作ろうとしている。
幼馴染という、存在しない過去まで使って。
「……じゃあ、せめて学校の中だけなら、幼馴染設定に付き合います」
俺は負けた。
周囲の視線と、星宮の指先と、何より彼女の目元に残る小さな揺れに負けた。
星宮は一瞬だけ固まった。
そのあと、ぱっと表情を明るくした。
作った笑顔ではない。思いもしなかったプレゼントを渡された子どもみたいな、隙だらけの顔だった。朝日よりもわかりやすく、彼女の瞳に光が戻る。
「ほんと?」
「学校の中だけです。あと、周りに変なことを言わないでください」
「うん。気をつける」
「本当に?」
「幼馴染として、節度ある距離感を心がける」
「幼馴染じゃないですけどね」
「今はまだ」
「まだ、も違います」
星宮は楽しそうに笑った。
さっきまで袖をつまんでいた指先が、今度は自然に俺の隣へ並ぶ。触れてはいない。けれど、いつでも触れられるくらいの距離だった。
俺たちは校門をくぐった。
周囲の視線が痛い。
星宮はその視線に慣れているのか、前を向いて歩いている。けれど、俺は気づいてしまった。彼女が俺の半歩後ろを歩いていることに。
昨日、体育館へ向かう廊下で俺の陰に隠れたときと同じ位置。
トップアイドルのくせに、視線の中心にいることに慣れているはずなのに、彼女はときどき俺の後ろへ隠れようとする。
そのくせ、俺が離れようとすると袖をつまむ。
本当に面倒くさい。
面倒くさいのに、無視しきれない。
「ねえ、清太」
「なんですか」
「今週の日曜日、予定ある?」
嫌な予感がした。
「あります」
「即答」
「『青春いらない』の最新刊を買う予定が」
星宮の目が輝いた。
しまった。
餌を与えてしまった。
「私も買う」
「でしょうね」
「一緒に買いに行こう?」
「行きません」
星宮の足が止まった。
俺も一歩遅れて立ち止まる。
まただ。
彼女は笑顔のまま、数秒だけ何も言わなくなった。視線が俺から地面へ落ちる。朝の光の中、長い睫毛が影を作る。唇の端は上がっているのに、その笑顔だけが置き去りになったみたいに見えた。
「……そっか」
小さな声だった。
聞こえないふりをするには、近すぎた。
俺は額を押さえた。
「いや、日曜日は無理です。土曜日にカードショップにも行くので、予算計算とか、いろいろあって」
「カードショップ」
星宮が顔を上げた。
さっき沈んだばかりの瞳に、別の光が宿る。
「清太、カードゲームするんだ」
「しますけど」
「私も覚える」
「なぜ?」
「清太の好きなもの、私も知りたいから」
まっすぐ言われた。
また、周囲の数人がこちらを見た。
俺は頭が痛くなってきた。
「星宮さん、そういうの重いです」
口にした瞬間、彼女の指先が止まった。
まずい。
そう思ったが、言葉はもう戻らない。
星宮は俺を見ていた。
さっきとは違う。今度は、取り繕うまでに少し時間がかかった。瞳の奥で何かが揺れ、唇がわずかに震える。けれど涙は出ない。たぶん彼女は、人前で泣くことだけは絶対にしない。
代わりに、笑った。
綺麗な、薄い笑顔だった。
「……そっか。重いんだ」
「いや、今のは言い方が」
「大丈夫。清太に嫌われないくらいの重さにするね」
「その調整方法がすでに怖いです」
「じゃあ、半分にする」
「何を?」
「清太のこと考える時間」
冗談の声ではなかった。
俺は返事に困った。
星宮は俺の困惑を見て、少しだけ首を傾げた。
「でも、半分にしても起きてる間はだいたい清太のことになるかも」
「半分とは」
「寝てる間は夢で見るから、別枠」
「怖い怖い怖い」
思わず本音が出た。
星宮は一瞬だけ目を丸くしたあと、口元に手を当てて笑った。
やっと、空気が少し軽くなる。
この人は危うい。
けれど、ずっと暗いわけではない。重さの中に、妙な冗談と可愛げが混ざっている。そのせいで完全に突き放しづらい。面倒くさいにも種類があるとしたら、星宮莉乃は最も厄介なタイプだった。
「じゃあ、土曜日は我慢する」
「日曜日も我慢してください」
「日曜日は偶然、本屋さんで会うかもしれないね」
「今、偶然の予約をしましたよね」
「幼馴染だから、行動パターンが似るんだよ」
「だから設定を便利に使わないでください」
そんなやり取りをしながら、俺たちは昇降口へ向かった。
靴を履き替えている間も、周囲の視線は途切れない。星宮は自分のローファーを揃えながら、ふと俺の鞄を見た。
「パーカー、持ってきてくれたんだ」
「ああ、まあ……なんとなく」
「なんとなく」
星宮はその言葉を大事そうに繰り返した。
そして、俺の耳元に少しだけ顔を寄せた。
「じゃあ、怖くなったら借りるね」
「学校で怖くなることあります?」
「あるよ」
星宮は廊下の向こうを見た。
そこには、彼女を見ている生徒たちがいた。好奇心、憧れ、探るような目。その全部を受けながら、彼女は綺麗に笑っている。
「清太が、私のこといらないって言いそうなとき」
胸の奥が、変なふうに詰まった。
いらない。
そんな言葉は言っていない。
けれど、彼女の中ではきっと、俺の拒否がその近くに聞こえているのだろう。幼馴染じゃない。付き合わない。一緒には行かない。その一つ一つが、彼女には少しずつ「いらない」に近い音で届いている。
面倒くさい。
本当に面倒くさい。
でも、ここで雑に扱えば、彼女はまたあの薄い笑顔を作る。
俺は鞄の紐を握り直した。
「いらないとは言ってません」
星宮がこちらを見る。
「ただ、近づき方が急すぎるんです」
「じゃあ、ゆっくりならいい?」
「普通なら、です」
「普通に、ゆっくり、幼馴染になる」
「最後だけおかしい」
星宮は小さく笑った。
その笑みは、今度はちゃんと温かかった。
教室に入ると、予想通り空気が変わった。
数人のクラスメイトがこちらを見て、すぐに目を逸らす。昨日の噂は確実に熟成されている。しかも今朝、校門から一緒に来たことで、さらに味が濃くなってしまった。
俺は自分の席へ向かう。
星宮も隣に座る。
席に着いた瞬間、前の席の男子が振り向いた。
「おはよう、高原。星宮さんと一緒に登校?」
「偶然です」
俺が即答すると、隣から星宮の声が重なった。
「幼馴染だから」
教室が一瞬でざわついた。
俺は机に突っ伏したくなった。
「星宮さん」
「なに?」
「気をつけるって言いましたよね」
「言ったよ。だから、幼馴染“だから”しか言ってない」
「それが問題なんです」
前の席の男子は、にやにやしながらこちらを見ている。
周囲の女子たちも明らかに聞き耳を立てていた。
星宮は涼しい顔をしている。けれど、机の下で俺の制服の袖をつまんでいた。
見えない場所で、逃げ道だけ塞いでくる。
俺は横目で彼女を見る。
星宮は小さく微笑んだ。
その笑顔は可愛い。
可愛いが、圧がある。
「清太」
「なんですか」
「学校の中では、付き合ってくれるんだよね?」
幼馴染設定に、という意味なのはわかる。
けれど言葉だけ聞けば完全に誤解しかない。
案の定、周囲の空気が爆発した。
「付き合っ……?」
「え、マジ?」
「高原、昨日何があったの?」
俺は星宮を見た。
星宮は俺を見ていた。
その瞳の奥には、不安と期待と、こちらが逃げたら壊れてしまいそうな危うさが混ざっている。けれど同時に、俺が逃げられないことを理解しているような、ずるい光もあった。
この人は本当に面倒くさい。
弱くて、重くて、ずるくて、可愛い。
俺は深く息を吐いた。
「……幼馴染設定に、です」
周囲に聞こえるように、はっきり補足した。
星宮の指先が、俺の袖を少しだけ強く握る。
「うん」
彼女は満足そうに頷いた。
そして俺にだけ聞こえる声で、そっと付け足す。
「今は、それで我慢する」
その言葉に、俺は背筋が少し冷たくなった。
今は。
やっぱり、このトップアイドルは諦めていない。
存在しない幼馴染という過去を、これから本物にする気でいる。
俺の高校生活二日目。
静かに過ごすという目標は、朝のホームルーム前にして、もうだいぶ遠くへ行ってしまった。
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