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7/12

自称

 次の日。


 入学式を終えた翌朝、俺はいつもより少し早く目を覚ました。


 カーテンの隙間から差し込む朝日は、散らかった部屋の惨状を容赦なく照らしている。床に転がるティッシュ。脱ぎっぱなしのパーカー。机の上で塔みたいに積まれた漫画とカードの束。昨日まではただの自室だったそれが、今日はなぜか逃げ場のように見えた。


 学校に行きたくない。


 正確に言えば、学校そのものが嫌なわけではない。問題は、そこに星宮莉乃がいることだった。


 学園のトップアイドル。いや、正確にはすでにテレビや広告に出ている有名アイドル。その星宮が、なぜか俺を幼馴染みたいに扱ってくる。


 昨日、俺は一応、釘を刺したはずだった。


 幼馴染ではない。普通に話しかけるならいい。そう言ったはずだ。


 なのに、クラスメイトたちの中ではすでに「高原清太と星宮莉乃は幼馴染みたいな関係」という情報が半分くらい定着していた。半分どころか、昼を越えたころには「実は昔から特別な関係だったらしい」くらいまで育っている可能性もある。


 噂というものは、湿った場所のカビより成長が早い。


 俺は制服に着替えながら、深いため息を吐いた。


 ラブコメ漫画やアニメなら、美味しい展開なのだろう。学園のアイドルが、冴えない主人公にだけ懐いてくる。周囲がざわつき、本人は困惑しつつも少しずつ距離を縮めていく。


 画面の向こうなら大好物だ。


 だが現実でそれをやられると、まず胃に来る。


 俺は鞄に教科書を詰め、昨日返されたパーカーが入っていることを確認してから部屋を出た。なぜ確認したのかは自分でもわからない。けれど、置いていくには少し落ち着かなかった。


 玄関で靴を履き、外へ出る。


 春の朝は、昨日より少しだけ冷たかった。住宅街の塀の上には桜の花びらが薄く積もり、遠くから登校中の生徒たちの声が聞こえてくる。俺はその中に紛れながら、スマホで『学園ラブコメに青春はいらない!!』、通称『青春いらない』の最新刊情報を確認した。


 発売日は今週の日曜日。


 その前日の土曜日には、カードショップへ行く予定もある。今のデッキに足りないカードを揃えなければならない。月々の小遣いは五千円。ラブコメ新刊とカード資産の両立は、もはや国家予算並みに慎重な配分が求められる。


 そんなことを考えているうちに、校門が見えてきた。


 足が少しだけ重くなる。


 この門をくぐれば、また面倒なことが起きるかもしれない。いや、起きるかもしれないではない。星宮莉乃がいる時点で、何かが起きる確率は高い。


 俺が校門前で一瞬だけ立ち止まった、そのときだった。


「おはよ、清太」


 背後から、聞こえてほしくなかった声がした。


 振り向く。


 そこに星宮莉乃が立っていた。


 朝日を受けた長い髪が、薄い茶色に透けている。制服は昨日と同じはずなのに、彼女が着ると新品の広告写真みたいに見える。通り過ぎる生徒たちが、誰もが一度は視線を向けた。


 だが、俺の目に最初に入ったのはそこではなかった。


 彼女の肩が、ほんの少し上下していた。


 走ってきたわけではない。けれど、待っていた人間がようやく現れたときの、張り詰めた呼吸だった。


「おはようございます、星宮さん」


 俺は目を合わせきれず、少しだけ視線を横に逃がした。


 すると、星宮の頬がわずかに膨らんだ。


「ねえ、私のことちゃんと見て」


「見てます」


「見てない。清太、私の肩のあたり見てる」


 バレていた。


 芸能人の観察力、怖い。


 仕方なく顔を見ると、星宮は満足そうに目を細めた。たったそれだけで、朝の校門前が妙に眩しくなる。周囲の視線も一段鋭くなった気がした。


「私たち、幼馴染なんだよ?」


「いや、俺たちは幼馴染じゃ――」


 言いかけた瞬間、星宮の表情が止まった。


 笑顔が消えたわけではない。


 ただ、目元の熱がすっと奥に引っ込んだ。唇が薄く開き、何かを言おうとして、結局閉じる。鞄の持ち手を握る指先だけが、少し強くなった。


 その変化は小さい。


 けれど、近くで見ている俺にはわかった。


 星宮莉乃は、人前で崩れることに慣れていない。だから崩れないようにする。整えた顔の裏で、ほんの少しだけ呼吸を浅くする。


 それが、余計に面倒だった。


 怒ってくれたほうが楽なのに。


 不満をぶつけてくれたほうが、こちらも言い返しやすいのに。


 彼女は黙って傷ついたような空白を作る。その空白を、周囲の視線が勝手に埋めていく。


 今も、校門を通る生徒たちがちらちらとこちらを見ていた。星宮莉乃が、知らない男子に拒絶されている。そんな絵面に見えているのだろう。


 最悪だ。


「あの、俺が星宮さんを助けたのは偶然です。だから、その……」


「偶然なら、なかったことになるの?」


 星宮の声は静かだった。


「え?」


「偶然なら、清太が私の前に来てくれたことも、漫画を拾ってくれたことも、名前を聞かないでいてくれたことも、全部、何でもないことになるの?」


 朝の空気が、少しだけ重くなった気がした。


 彼女は俺を責めるような声を出していない。むしろ、言葉を選んでいる。けれど、そのぶん一つ一つが妙に深く刺さる。


「私にとっては、何でもなくなかったよ」


 星宮はそう言って、俺の鞄に視線を落とした。


 昨日返したパーカーが、そこに入っていることを知っているみたいに。


「清太はすぐ、線を引くよね。ここから先は来ないでくださいって。私が近づくと、すぐ逃げる」


「それは……普通、逃げますよ。この前会ったばかりの有名人に幼馴染扱いされたら」


「でも、清太は逃げなかったよ。あの日、あの人たちからは」


 言い返せなかった。


 星宮は一歩近づいた。


 近い。


 昨日からずっと思っているが、この人は距離の詰め方が明らかにおかしい。校門前で、登校中の生徒が周囲にいる状況で、普通にこちらの袖に触れてくる。


 指先が、制服の袖をつまんだ。


「私、清太のそういうところ、好きだよ」


「っ……!」


 周囲の空気が跳ねた。


 いや、俺の心臓も跳ねた。


 朝の校門前で、学園のトップアイドルが、冴えない男子に「好き」と言った。しかも袖をつまみながら。これを目撃した生徒たちの脳内で、今まさに噂が爆発的に増殖しているに違いない。


「星宮さん、その言い方は誤解を――」


「誤解じゃないよ」


 星宮は即答した。


 まっすぐだった。


 まっすぐすぎて、俺のほうが視線を逸らしたくなる。


「でも、今の清太には重いだろうから、幼馴染ってことにしてあげてるの」


「してあげてる?」


「うん。だって幼馴染なら、そばにいても不自然じゃないでしょ?」


 その理屈はおかしい。


 おかしいのに、星宮は本気の顔をしていた。


 いや、本気だからこそおかしい。


 彼女の中では、昨日の出来事が何か決定的なものになってしまっている。たった一度助けただけで、たった一度名前を聞かなかっただけで、俺の隣に立つ理由を作ろうとしている。


 幼馴染という、存在しない過去まで使って。


「……じゃあ、せめて学校の中だけなら、幼馴染設定に付き合います」


 俺は負けた。


 周囲の視線と、星宮の指先と、何より彼女の目元に残る小さな揺れに負けた。


 星宮は一瞬だけ固まった。


 そのあと、ぱっと表情を明るくした。


 作った笑顔ではない。思いもしなかったプレゼントを渡された子どもみたいな、隙だらけの顔だった。朝日よりもわかりやすく、彼女の瞳に光が戻る。


「ほんと?」


「学校の中だけです。あと、周りに変なことを言わないでください」


「うん。気をつける」


「本当に?」


「幼馴染として、節度ある距離感を心がける」


「幼馴染じゃないですけどね」


「今はまだ」


「まだ、も違います」


 星宮は楽しそうに笑った。


 さっきまで袖をつまんでいた指先が、今度は自然に俺の隣へ並ぶ。触れてはいない。けれど、いつでも触れられるくらいの距離だった。


 俺たちは校門をくぐった。


 周囲の視線が痛い。


 星宮はその視線に慣れているのか、前を向いて歩いている。けれど、俺は気づいてしまった。彼女が俺の半歩後ろを歩いていることに。


 昨日、体育館へ向かう廊下で俺の陰に隠れたときと同じ位置。


 トップアイドルのくせに、視線の中心にいることに慣れているはずなのに、彼女はときどき俺の後ろへ隠れようとする。


 そのくせ、俺が離れようとすると袖をつまむ。


 本当に面倒くさい。


 面倒くさいのに、無視しきれない。


「ねえ、清太」


「なんですか」


「今週の日曜日、予定ある?」


 嫌な予感がした。


「あります」


「即答」


「『青春いらない』の最新刊を買う予定が」


 星宮の目が輝いた。


 しまった。


 餌を与えてしまった。


「私も買う」


「でしょうね」


「一緒に買いに行こう?」


「行きません」


 星宮の足が止まった。


 俺も一歩遅れて立ち止まる。


 まただ。


 彼女は笑顔のまま、数秒だけ何も言わなくなった。視線が俺から地面へ落ちる。朝の光の中、長い睫毛が影を作る。唇の端は上がっているのに、その笑顔だけが置き去りになったみたいに見えた。


「……そっか」


 小さな声だった。


 聞こえないふりをするには、近すぎた。


 俺は額を押さえた。


「いや、日曜日は無理です。土曜日にカードショップにも行くので、予算計算とか、いろいろあって」


「カードショップ」


 星宮が顔を上げた。


 さっき沈んだばかりの瞳に、別の光が宿る。


「清太、カードゲームするんだ」


「しますけど」


「私も覚える」


「なぜ?」


「清太の好きなもの、私も知りたいから」


 まっすぐ言われた。


 また、周囲の数人がこちらを見た。


 俺は頭が痛くなってきた。


「星宮さん、そういうの重いです」


 口にした瞬間、彼女の指先が止まった。


 まずい。


 そう思ったが、言葉はもう戻らない。


 星宮は俺を見ていた。


 さっきとは違う。今度は、取り繕うまでに少し時間がかかった。瞳の奥で何かが揺れ、唇がわずかに震える。けれど涙は出ない。たぶん彼女は、人前で泣くことだけは絶対にしない。


 代わりに、笑った。


 綺麗な、薄い笑顔だった。


「……そっか。重いんだ」


「いや、今のは言い方が」


「大丈夫。清太に嫌われないくらいの重さにするね」


「その調整方法がすでに怖いです」


「じゃあ、半分にする」


「何を?」


「清太のこと考える時間」


 冗談の声ではなかった。


 俺は返事に困った。


 星宮は俺の困惑を見て、少しだけ首を傾げた。


「でも、半分にしても起きてる間はだいたい清太のことになるかも」


「半分とは」


「寝てる間は夢で見るから、別枠」


「怖い怖い怖い」


 思わず本音が出た。


 星宮は一瞬だけ目を丸くしたあと、口元に手を当てて笑った。


 やっと、空気が少し軽くなる。


 この人は危うい。


 けれど、ずっと暗いわけではない。重さの中に、妙な冗談と可愛げが混ざっている。そのせいで完全に突き放しづらい。面倒くさいにも種類があるとしたら、星宮莉乃は最も厄介なタイプだった。


「じゃあ、土曜日は我慢する」


「日曜日も我慢してください」


「日曜日は偶然、本屋さんで会うかもしれないね」


「今、偶然の予約をしましたよね」


「幼馴染だから、行動パターンが似るんだよ」


「だから設定を便利に使わないでください」


 そんなやり取りをしながら、俺たちは昇降口へ向かった。


 靴を履き替えている間も、周囲の視線は途切れない。星宮は自分のローファーを揃えながら、ふと俺の鞄を見た。


「パーカー、持ってきてくれたんだ」


「ああ、まあ……なんとなく」


「なんとなく」


 星宮はその言葉を大事そうに繰り返した。


 そして、俺の耳元に少しだけ顔を寄せた。


「じゃあ、怖くなったら借りるね」


「学校で怖くなることあります?」


「あるよ」


 星宮は廊下の向こうを見た。


 そこには、彼女を見ている生徒たちがいた。好奇心、憧れ、探るような目。その全部を受けながら、彼女は綺麗に笑っている。


「清太が、私のこといらないって言いそうなとき」


 胸の奥が、変なふうに詰まった。


 いらない。


 そんな言葉は言っていない。


 けれど、彼女の中ではきっと、俺の拒否がその近くに聞こえているのだろう。幼馴染じゃない。付き合わない。一緒には行かない。その一つ一つが、彼女には少しずつ「いらない」に近い音で届いている。


 面倒くさい。


 本当に面倒くさい。


 でも、ここで雑に扱えば、彼女はまたあの薄い笑顔を作る。


 俺は鞄の紐を握り直した。


「いらないとは言ってません」


 星宮がこちらを見る。


「ただ、近づき方が急すぎるんです」


「じゃあ、ゆっくりならいい?」


「普通なら、です」


「普通に、ゆっくり、幼馴染になる」


「最後だけおかしい」


 星宮は小さく笑った。


 その笑みは、今度はちゃんと温かかった。


 教室に入ると、予想通り空気が変わった。


 数人のクラスメイトがこちらを見て、すぐに目を逸らす。昨日の噂は確実に熟成されている。しかも今朝、校門から一緒に来たことで、さらに味が濃くなってしまった。


 俺は自分の席へ向かう。


 星宮も隣に座る。


 席に着いた瞬間、前の席の男子が振り向いた。


「おはよう、高原。星宮さんと一緒に登校?」


「偶然です」


 俺が即答すると、隣から星宮の声が重なった。


「幼馴染だから」


 教室が一瞬でざわついた。


 俺は机に突っ伏したくなった。


「星宮さん」


「なに?」


「気をつけるって言いましたよね」


「言ったよ。だから、幼馴染“だから”しか言ってない」


「それが問題なんです」


 前の席の男子は、にやにやしながらこちらを見ている。


 周囲の女子たちも明らかに聞き耳を立てていた。


 星宮は涼しい顔をしている。けれど、机の下で俺の制服の袖をつまんでいた。


 見えない場所で、逃げ道だけ塞いでくる。


 俺は横目で彼女を見る。


 星宮は小さく微笑んだ。


 その笑顔は可愛い。


 可愛いが、圧がある。


「清太」


「なんですか」


「学校の中では、付き合ってくれるんだよね?」


 幼馴染設定に、という意味なのはわかる。


 けれど言葉だけ聞けば完全に誤解しかない。


 案の定、周囲の空気が爆発した。


「付き合っ……?」


「え、マジ?」


「高原、昨日何があったの?」


 俺は星宮を見た。


 星宮は俺を見ていた。


 その瞳の奥には、不安と期待と、こちらが逃げたら壊れてしまいそうな危うさが混ざっている。けれど同時に、俺が逃げられないことを理解しているような、ずるい光もあった。


 この人は本当に面倒くさい。


 弱くて、重くて、ずるくて、可愛い。


 俺は深く息を吐いた。


「……幼馴染設定に、です」


 周囲に聞こえるように、はっきり補足した。


 星宮の指先が、俺の袖を少しだけ強く握る。


「うん」


 彼女は満足そうに頷いた。


 そして俺にだけ聞こえる声で、そっと付け足す。


「今は、それで我慢する」


 その言葉に、俺は背筋が少し冷たくなった。


 今は。


 やっぱり、このトップアイドルは諦めていない。


 存在しない幼馴染という過去を、これから本物にする気でいる。


 俺の高校生活二日目。


 静かに過ごすという目標は、朝のホームルーム前にして、もうだいぶ遠くへ行ってしまった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。

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