また明日
式が終わり、教室へ戻るころには、俺の精神はかなり削られていた。
だが本番はここからだった。
教室に戻ると、クラス写真の案内や今後の予定説明があり、保護者との合流時間まで少しだけ自由時間ができた。生徒たちは一気に緊張を緩め、近くの席の者同士で話し始める。
当然、星宮莉乃の周りには人が集まった。
女子が数人、男子が数人。
最初は遠巻きにしていた生徒たちも、入学式を終えた安心感からか、少しずつ距離を詰めていく。
「星宮さん、本当に芸能活動してるんだよね?」
「ドラマ見てたよ」
「写真とかって、やっぱりダメ?」
「どこの中学だったの?」
質問が重なる。
星宮莉乃は、それらにひとつひとつ丁寧に答えていた。写真は学校内では控えてほしいこと。仕事の話は事務所の都合で詳しく言えないこと。けれど同じクラスとして仲良くしてくれたら嬉しいこと。
完璧だった。
完璧すぎて、見ているこちらが疲れるほどだった。
俺はその輪から少し離れ、自分の席でプリントを鞄にしまっていた。関わらない。星宮莉乃には星宮莉乃の世界がある。昨日と今朝で妙な接点ができたとはいえ、俺がそこに踏み込む必要はない。
そう思っていたのに。
「ねえ、高原くん」
突然、近くの男子に声をかけられた。
名前はまだ覚えていない。背が高く、髪を軽く整えた、クラスの中心に行けそうなタイプの男子だった。俺とは人種が違う。
「星宮さんと幼馴染なの?」
来た。
恐れていた質問が、思ったより早く来た。
周囲の何人かがこちらを見る。星宮莉乃の周りにいた女子たちまで、少しだけ耳を傾けている。本人も、会話を続けながらこちらの反応をうかがっている気配がした。
俺は深く息を吸った。
ここで正すしかない。
今ならまだ間に合う。
幼馴染ではない。昨日たまたま会っただけ。そう言えばいい。事実を淡々と述べればいい。余計な誤解は早期に潰す。危機管理の基本である。
「いや、幼馴染では――」
そこまで言った瞬間、星宮莉乃の指先が止まった。
彼女は笑顔のまま女子の質問に答えている。けれど、机の上に置かれた手だけが動かなくなった。視線は俺を見ていない。見ていないのに、こちらの言葉を待っているのがわかる。
昨日のベンチ。
名前を聞きたそうにしていた顔。
今朝、パーカーを返すときの声。
体育館へ向かう廊下で、俺の半歩後ろに隠れた彼女。
それらが一瞬で頭をよぎった。
まずい。
ここで完全否定すると、たぶん星宮莉乃はまた何かを飲み込む顔をする。だからといって、幼馴染を認めるわけにはいかない。俺は言葉を選び直した。
「……昔からの知り合い、みたいなものではないです」
「どっち?」
男子が首を傾げる。本当にその通りだと思う。自分でも何を言っているのかわからない。すると、星宮莉乃が静かに立ち上がった。
教室の空気がまた変わる。
彼女は周囲に柔らかく断ってから、俺の席の横まで来た。近い。今日だけで何度この距離感を味わわされるのだろう。人間には適切な対トップアイドル距離というものがあるはずだ。
星宮莉乃は、俺の机に片手をついた。
そして、周囲に聞こえるくらいの声で言った。
「私にとっては、幼馴染みたいな人だよ」
絶妙に逃げ道を残した言い方だった。
幼馴染だとは断言していない。
けれど周囲には、ほぼ幼馴染だと受け取られる。
さすが芸能人。言葉の使い方が上手い。いや、感心している場合ではない。
男子たちが「へぇ」と意味ありげな声を漏らし、女子たちが小さく顔を見合わせる。俺の高校生活に、また余計なタグが追加された音がした。
星宮莉乃は俺のほうを見た。
その瞳には、少しだけ不安が混ざっていた。
押し通したい。
けれど、俺に完全に拒まれるのは怖い。
そんな矛盾した感情が、綺麗な顔の奥で揺れている。
俺は頭を抱えたくなった。
この人は本当に厄介だ。
トップアイドルのくせに、なぜこんな無茶な距離の詰め方をしてくるのか。なぜ俺なんかに、そんな目を向けるのか。
「……みたいな、ですからね」
俺は苦し紛れに言った。完全な肯定ではない。だが完全な否定でもない。星宮莉乃の表情が、ほんの少しだけほどけた。それを見た瞬間、俺は負けた気がした。
「うん。今は、それでいい」
今は。
その言葉に、嫌な含みがあった。
星宮莉乃は満足そうに自分の席へ戻っていく。周囲のクラスメイトたちは、今のやり取りだけで十分な燃料を得たらしい。小声の会話があちこちで広がっていく。
高原と星宮さん、何かあるらしい。
幼馴染みたいな関係らしい。
昔からの知り合いっぽいらしい。
情報は伝言ゲームで歪む。
昼頃には、おそらく俺は星宮莉乃の初恋の相手くらいに改変されているかもしれない。
いや、彼女自身がそれに近いことを言い出しかねないのが一番怖い。
その後、保護者との合流やクラス写真の撮影があった。
クラス写真では、星宮莉乃が当然のように中央付近へ配置され、俺は偶然にもその斜め後ろになった。撮影係の教師が「もう少し詰めて」と言った瞬間、星宮莉乃がわざとらしく半歩後ろへ下がり、俺との距離を縮めてきた。
肩が触れそうになる。
俺は反射的に少し下がった。
その瞬間、星宮莉乃の横顔がわずかに固まった。
まただ。
また俺が悪いことをしたみたいになるやつだ。
俺は仕方なく、元の位置に戻った。
彼女の肩がほんの少しだけ俺の腕に触れる。制服越しのわずかな接触なのに、意識するとやたら落ち着かない。
撮影係がカメラを構える。
「はい、撮りますよー」
その瞬間、星宮莉乃が小さく囁いた。
「逃げなかった」
「写真だからです」
「でも、嬉しい」
シャッター音が鳴った。
俺はたぶん、ひどく微妙な顔で写った。
一方の星宮莉乃は、きっと完璧な笑顔で写っているのだろう。いや、もしかしたらいつもの広告みたいな笑顔ではなく、少しだけ本物に近い顔だったかもしれない。
入学式の日程がすべて終わるころには、俺は完全に疲れ切っていた。
保護者たちが帰り始め、生徒たちも少しずつ教室を出ていく。俺も母親と合流する前に、廊下の人気が少ない場所で一息つこうとした。
そのとき、背後から足音が近づいてきた。
振り向かなくてもわかる。
星宮莉乃だ。
彼女は俺の少し後ろで立ち止まった。
廊下の窓から差し込む春の光が、彼女の髪を淡く照らしている。教室で見せていた完璧な笑顔は、今は少し薄れていた。人の目が少ないからだろうか。肩の力も、ほんの少し抜けている。
「話したいって言ったの、覚えてる?」
「覚えてます」
「じゃあ、少しだけ」
俺は周囲を見た。
廊下の向こうには生徒や保護者がいるが、こちらまで注意を向けている者はいない。完全な二人きりではないが、話すには十分だった。
星宮莉乃は窓際に立ち、外の桜を見た。
風が吹き、花びらが数枚、校庭のほうへ流れていく。
「昨日、名前を聞いたのに、教えてくれなかったよね」
「まあ……」
「ちょっと悔しかった」
彼女はそう言って、俺のほうを見た。
怒っているわけではない。
けれど、何かを思い出している顔だった。
「私、ああいうときに助けられるの、慣れてないんだ」
「芸能人なら、そういうの多そうですけど」
「助けてくれる人はいるよ。でも、みんな私を星宮莉乃として助ける。事務所の人も、スタッフさんも、ファンの人も、先生も。もちろんありがたいし、嫌なわけじゃない。でも昨日の君は、私の名前を知ってても知らないふりをした」
知らないふりというか、本当に確信がなかった。
だが、口を挟む空気ではなかった。
星宮莉乃は自分の指先を見下ろした。昨日、漫画を抱えていた手。今日、俺のネクタイを整えた手。何かを掴もうとして、何度も空振りしているような手だった。
「それが、すごく楽だった」
廊下のざわめきが遠くなる。
彼女の声だけが、やけにはっきり届いた。
「名前も聞かないで、写真も撮らないで、誰かに言う感じもなくて。ただ漫画を拾ってくれて、好きなものを大事にしてくれた。私、そういうのに弱かったみたい」
最後のほうで、彼女は少しだけ笑った。
自分でも困っているような笑い方だった。
俺は返事に困った。
そんなつもりじゃなかった、と言えば簡単だ。実際、その通りだ。俺はただ、目の前で困っている人を見てしまっただけで、格好いい理由なんて何もない。
けれど、そんなつもりじゃなかったという言葉は、相手が受け取ったものまで否定してしまう気がした。
だから俺は、少しだけ考えてから言った。
「俺は、別に大したことはしてません」
星宮莉乃は俺を見た。
「でも、俺が同じ立場だったら、たぶん助かったと思います。自分のことを詮索されずに、好きなものを拾ってもらえたら」
彼女の目が、ほんの少しだけ大きくなった。
俺は視線を逸らし、窓の外を見た。
桜が揺れている。
春は明るすぎて、こういう話をするには少し眩しい。
「だから、昨日のことを大事に思うのは勝手です。でも、幼馴染を捏造するのはやめてください」
星宮莉乃は黙った。
数秒。
彼女は何も言わなかった。
俺は言いすぎたかと思い、横目で彼女を見る。
星宮莉乃は、唇をきゅっと結んでいた。怒っているわけではない。泣きそうというほどでもない。ただ、胸の奥に何かをしまい込むように、呼吸を小さくしている。
やがて彼女は、ゆっくりと口を開いた。
「……やめたら、話しかけてもいい?」
その声は、教室で幼馴染設定を押し通していたときとは違った。
トップアイドルの声でも、完璧なクラスメイトの声でもない。
昨日、ベンチで「また会えますか」と聞いた女の子の声だった。
俺は返事に詰まった。
断るのは簡単だ。
静かな高校生活を守るなら、ここで線を引くべきなのだろう。星宮莉乃に関われば、確実に目立つ。今日の数時間だけでそれは痛いほどわかった。
けれど。
廊下でひとり立つ彼女を見ていると、昨日の自分を少し思い出した。
友達と別れたあと、ショッピングモールの出口でひとり取り残された感覚。人混みの中にいるのに、自分だけ音量を下げられたような寂しさ。
星宮莉乃は、たぶん俺よりずっと人に囲まれている。
それでも、同じような場所に立っている瞬間があるのかもしれない。
「普通に話しかけるなら、別にいいです」
そう答えた瞬間、星宮莉乃の肩から力が抜けた。
彼女は窓枠に手を置き、少しだけ俯いた。長い髪が頬にかかり、その表情を半分隠す。けれど、唇の端が小さく上がっているのは見えた。
「じゃあ、普通に話しかける」
「はい」
「幼馴染っぽく?」
「普通に」
「幼馴染未満くらい?」
「普通に」
「将来の幼馴染候補」
「その概念を捨ててください」
星宮莉乃は小さく笑った。
今度の笑い方は、さっきより自然だった。
俺は少しだけ安心しかけた。
その直後、彼女は顔を上げて、さらりと言った。
「でも、クラスのみんなにはもう幼馴染みたいな人って言っちゃったから」
「撤回してください」
「急に撤回したら変に思われるよ」
「今のほうが変です」
「じゃあ、しばらくは設定維持で」
「交渉が決裂しています」
星宮莉乃は、いたずらが成功した子どものように目を細めた。
その表情に、俺はようやく理解した。
彼女は弱っているだけの女の子ではない。
押しが強い。
かなり強い。
しかも、自分の可愛さと周囲への影響力をある程度理解したうえで、それをギリギリ悪用しない程度に使ってくる。
厄介すぎる。
「清太」
「なんですか」
「明日、一緒に登校しよっか」
「しません」
即答した。
星宮莉乃の笑顔が止まった。
また、ほんの一瞬だけ。
その後、彼女は何事もなかったように口元を整えたが、窓枠に置いた指先が少しだけ内側へ丸まっていた。
俺は頭を抱えたくなった。
この反応をされると、こちらが悪者みたいになる。
「……学校で話すくらいなら、普通に」
妥協案を出すと、星宮莉乃の目元が少しだけ柔らかくなった。
「じゃあ、明日も学校で話す」
「普通に、ですからね」
「うん。普通に、幼馴染っぽく」
「普通の定義を辞書で引いてください」
廊下の向こうから、俺の名前を呼ぶ母親の声がした。
どうやら保護者との合流時間らしい。
俺は星宮莉乃に軽く頭を下げ、その場を離れようとした。
そのとき、彼女が小さく俺の袖をつまんだ。
今度は、教室でやったような見せつけるための仕草ではなかった。
ほんの少しだけ引き止めるための、弱い力だった。
「清太」
振り向く。
星宮莉乃は、俺の袖からすぐに手を離した。
その手を自分の胸元に戻し、何かを迷うように指先を重ねる。
「昨日のパーカー、返したけど」
「はい」
「また借りてもいい?」
「寒いときなら」
「怖いときでも?」
俺はすぐに答えられなかった。
星宮莉乃は、俺の返事を待っていた。
廊下の窓から春の光が差し込み、彼女の髪を淡く照らしている。トップアイドルとしての輝きとは違う、もっと頼りない光だった。
俺は息を吐いた。
「……必要なら」
星宮莉乃は、目を細めた。
その表情は、笑顔というには少し静かすぎた。けれど、さっきまで何度も作っていた完璧な顔より、ずっと印象に残った。
「じゃあ、予約しておくね」
「パーカーを?」
「ううん」
彼女は一歩下がった。
廊下の向こうから、また母親の声が聞こえる。
俺はそちらへ行かなければならない。
星宮莉乃は、そんな俺を見送るように立っていた。
そして、最後に小さく言った。
「清太の隣」
返事をする前に、彼女は背を向けた。
綺麗な髪が揺れ、制服のスカートが春の光の中でふわりと動く。廊下の向こうでは、まだ何人もの生徒が彼女に視線を向けていた。
星宮莉乃はその視線を受けながら、いつもの完璧な笑顔を作る。
けれど、俺にはもうわかってしまった。
その笑顔の下に、昨日のベンチで漫画を抱えていた女の子がいること。
名前を知らない相手に助けられただけで、勝手に胸を高鳴らせてしまうくらい、案外普通で、案外危うい少女がいること。
そして、その少女が今後も遠慮なく俺の平穏を壊しに来るであろうこと。
俺は母親のもとへ向かいながら、小さくため息をついた。
高校生活初日。
目立たず、波風を立てず、普通に過ごすという俺の計画は、学園のトップアイドルによって盛大に書き換えられた。
しかもそのトップアイドルは、まだ諦めていない。
幼馴染という存在しない過去を、これから作る気でいる。
ラブコメは好きだ。
夢みたいな物語に救われたこともある。
けれど、現実でそれが向こうから全力疾走してくると、こんなにも胃が痛いものなのか。
明日から、俺はどうなるのだろう。
そんな不安を抱えたまま、俺は一度だけ振り返った。
廊下の向こうで、星宮莉乃もこちらを見ていた。
目が合う。
彼女は人差し指を唇に当て、内緒話でもするみたいに小さく笑った。
そして、口の形だけで言う。
また明日。
俺は見なかったことにした。
見なかったことにしたのに、胸の奥にはしっかり残ってしまった。
最悪だ。
俺の高校生活は、まだ始まったばかりだというのに。
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