ラブコメよりも密度が高い
「えー、皆さん、入学おめでとうございます。本日からこの一年二組の担任を務める、佐伯です」
担任の佐伯先生は、黒板に自分の名前を書いた。
チョークの音が教室に響く。
いよいよ高校生活が始まる。そう実感するには十分な光景だった。新しい教室、新しい担任、新しいクラスメイト。俺はここで、目立たず、問題を起こさず、少しずつ普通に戻っていくつもりだった。
その計画は、すでに右隣の存在によって崩れかけているが。
「入学式の前に、簡単な連絡と出席確認をします。名前を呼ばれたら返事をしてください」
出席確認が始まった。
名字の順に名前が呼ばれていく。新入生たちはそれぞれ緊張した声で返事をしていた。妙に大きい声を出す男子もいれば、蚊の鳴くような声の女子もいる。俺は自分の番が近づくにつれて、少しだけ背筋を伸ばした。
「高原清太」
「はい」
自分でも驚くくらい普通の声が出た。
これでいい。普通でいい。何も起きない。俺はただ出席確認に返事をしただけだ。
そう思った瞬間、右隣から小さな気配がした。
星宮莉乃が、俺の名前を聞いてほんの少しだけ反応していた。
机の下で、彼女の指先が制服のスカートを軽く掴んでいる。名前を確認するように、口の中で小さく何かを転がしたようにも見えた。
高原清太。
昨日は知らなかった名前。
今朝、名簿で知ったばかりの名前。
それを彼女は、まるで大事な言葉を覚えるみたいに受け止めていた。
「星宮莉乃」
「はい」
彼女の返事は、澄んでいた。
教室中の空気が少し揺れる。たった一言で、人の意識を集める声だった。テレビ越しに聞く声より近く、広告の中の笑顔よりずっと生身に近い。
俺は前を向いたまま、できるだけ隣を見ないようにした。
見ると、また何か巻き込まれる気がしたからだ。
出席確認が終わると、佐伯先生はプリントを配り始めた。入学式の流れ、保護者の集合場所、クラス写真の案内、今後の予定。前の席から順に回ってきたプリントを受け取り、自分の分を抜いて後ろへ回す。
その単純作業の中で、また問題が起きた。
星宮莉乃が、俺のほうへプリントを渡すとき、指先をほんの少しだけ重ねてきた。
偶然ではない。
絶対に偶然ではない。
プリントの端ではなく、俺の指が触れる位置に合わせてきた。しかも触れた瞬間、彼女は前を向いたまま何食わぬ顔をしている。横顔は涼しい。けれど耳の先だけが薄く赤い。
なんだこの生き物。
自分から仕掛けておいて、自分で照れるな。
俺はプリントを受け取り、すぐに後ろへ回した。
心臓が無駄に一回跳ねた。
腹立たしいことに、相手が星宮莉乃である以上、指先が触れただけでも破壊力がある。顔面の説得力というのは、時に倫理をねじ曲げる。いや、ねじ曲げられてたまるか。
俺はプリントの文字に集中しようとした。
入学式の開始時刻。体育館への移動。保護者席。校歌斉唱。
どれも頭に入ってこない。
右隣から、星宮莉乃の存在感が強すぎる。
まるで机一つ分の距離に、小型の太陽が置かれているみたいだった。眩しい。熱い。しかも本人は、こちらを照らしている自覚があるのかないのか、時々ちらりと俺のほうを見てくる。
「星宮」
不意に佐伯先生が彼女を呼んだ。
星宮莉乃はすぐに顔を上げる。
「はい」
「入学式後、少し職員室に来てもらえるか。芸能活動の件で確認しておきたいことがある」
「わかりました」
教室に、また小さなざわめきが広がった。
芸能活動。
その単語ひとつで、彼女が普通の生徒ではないことが改めて浮き彫りになる。星宮莉乃は落ち着いた様子で頷いていたが、周囲の視線はますます熱を帯びた。
俺はその横顔を見ないようにした。
昨日、男子たちに囲まれていた彼女を思い出す。
たぶん、これからも同じようなことは起きる。学校でも、外でも。星宮莉乃という名前は、彼女本人の意思とは別に人を集める。好意も、興味も、悪意も、軽率な好奇心も。
そんな人間が、なぜ俺に幼馴染のフリをしてまで近づいてくるのか。
昨日の俺の行動がきっかけだとしても、やり方が極端すぎる。
普通は、ありがとうで終わる。
せいぜい友達になりたいと言うくらいだ。
幼馴染を捏造する必要はない。
俺が頭の中でそう整理していると、机の端に小さな紙片が滑ってきた。
星宮莉乃のほうからだった。
俺は前を向いたまま、視線だけでそれを確認する。
プリントの端を綺麗に破ったメモ用紙。
そこには、丸みのある綺麗な字でこう書かれていた。
『入学式が終わったら、少しだけ話したい』
俺は横目で星宮莉乃を見た。
彼女は前を向いている。完全に優等生の顔をしている。先生の話を聞いているふりも完璧だ。けれど、机の下で握られた右手だけが、わずかに力を入れていた。
俺は返事を書くべきか迷った。
話すべきことはある。
ありすぎる。
まず幼馴染設定を撤回してもらわないと困る。今すぐ撤回してもらわないと、俺の高校生活が始まった瞬間に特殊ルートへ固定されてしまう。星宮莉乃の幼馴染。そんな肩書きは、静かに生きたい俺にとって爆弾以外の何物でもない。
けれど、昨日のことについては、俺も聞きたいことがあった。
彼女がどうして一人でショッピングモールにいたのか。
どうしてあれほど怯えていたのか。
そして、どうして俺の名前を知った瞬間、幼馴染のフリなんて無茶を始めたのか。
俺はシャーペンを取り出し、メモの下に小さく返事を書いた。
『少しだけなら』
それを彼女の机へ戻す。
星宮莉乃は、視線を落としてその文字を読んだ。
次の瞬間、彼女の肩からほんの少しだけ力が抜けた。
唇の端が小さく上がる。
人前で見せる完璧な笑顔ではなく、何かをこらえきれずに漏れてしまったような、短い笑みだった。
また、心臓が無駄に跳ねた。
やめろ。
俺の心臓は、そんな低燃費ではない。昨日ラブコメアニメの最終回を見て瀕死になったばかりなのだ。現実のトップアイドルから連続攻撃を受ける耐久値など残っていない。
やがて、入学式のために体育館へ移動する時間になった。
佐伯先生の指示で、クラスの生徒たちが廊下へ並ぶ。出席番号順に並ぶため、俺と星宮莉乃は当然近い。というか、ほぼ隣のようなものだった。
廊下に出ると、他クラスの生徒たちの視線まで飛んでくる。
星宮莉乃がいる。
その情報は、すでに新入生の間に広まり始めているらしい。廊下の向こうで誰かがスマホを取り出しかけ、近くの教師に注意されて慌ててしまう。星宮莉乃はそれに気づいているはずなのに、表情を崩さなかった。
ただ、俺のすぐ横を歩いていた彼女の歩幅が、ほんの少しだけ小さくなった。
俺はその変化に気づいてしまった。
気づかなければよかったのに。
体育館へ向かう途中、廊下の窓から春の光が差し込んでいた。床に伸びた光の帯の上を、新入生たちの黒い靴が次々と通り過ぎていく。誰もが少し浮き足立っていて、誰もが自分のことで精一杯のはずなのに、星宮莉乃だけはやはり見られていた。
彼女の名前。
彼女の顔。
彼女の肩書き。
それらが、彼女本人より先に人々の視線を集める。
昨日のショッピングモールで、俺は彼女のことを星宮莉乃として扱わなかった。単に、深く踏み込むのが怖かっただけだ。相手の世界に入る勇気がなかっただけだ。
けれど、それが彼女にとっては違って見えたのかもしれない。
俺は少しだけ歩調を落とした。
ほんの少し。
隣を歩く星宮莉乃が、周囲の視線から半歩だけ隠れるくらいの位置に立つ。俺の背丈で彼女を完全に隠すことはできない。そもそもそんなことをすれば余計に目立つ。だから、あくまで自然に。偶然そうなったように。
星宮莉乃がこちらを見た。
俺は前を向いたまま歩いた。
何も言わない。
助けているつもりだと主張する気もない。昨日と同じだ。こういうものは、名前をつけた瞬間に余計な意味を持ってしまう。
ただ、彼女の指先が制服の袖をつまむのをやめたことだけは、視界の端でわかった。
体育館に入る直前、星宮莉乃が小さく息を吸った。
「清太」
周囲には聞こえないくらいの声だった。
「なんですか」
「やっぱり、昔からそうだったよ」
「だから、その昔は存在しません」
「今、増えた」
俺は返事に詰まった。
星宮莉乃は前を向いたまま、少しだけ笑った。
その横顔は、さっき教室で幼馴染設定を押し通そうとしていたときよりも、ずっと自然だった。笑顔は小さい。けれど、無理に作ったものではなかった。
体育館の扉をくぐると、入学式の厳かな空気が俺たちを包んだ。
パイプ椅子が整然と並び、壇上には校旗と花が飾られている。保護者席にはすでに多くの大人たちが座っていて、新入生が入ってくるたびに視線が向けられた。
俺は自分の席に座り、膝の上に手を置いた。
右斜め前に、星宮莉乃の後ろ姿が見える。
背筋は真っ直ぐで、髪は綺麗に整えられている。どこから見ても、完璧な新入生代表みたいだった。実際に代表をやるのかと思うくらい、彼女はそこにいるだけで絵になる。
入学式は粛々と進んだ。
開式の言葉。
校長の式辞。
来賓の挨拶。
祝電披露。
どれも大切なのだろうが、俺の頭には半分も入ってこなかった。緊張のせいもある。眠気のせいもある。けれど一番の理由は、やはり星宮莉乃だった。
トップアイドル。
昨日助けた女の子。
今日から同じクラスの隣の席。
そして、なぜか俺の幼馴染のフリをしている人。
情報量が多すぎる。
俺の高校生活は、まだ一時間も経っていないのに、すでに二期最終回くらいの密度になっている。
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