入学式
先生が教室に入ってくるまでの数分間、俺は人生で初めて、沈黙がこれほど暴力的なものになり得るのだと知った。
誰も大声では騒いでいない。入学式の朝という特殊な空気もあって、教室全体は一応それなりに節度を保っている。けれど、視線だけは容赦がなかった。
黒板側から。
窓際から。
廊下に近い席から。
そして、俺の目の前から。
星宮莉乃は、なぜか俺の隣に立ったまま動かない。自分の席へ行く気配もない。むしろ、俺が逃げないように自然な位置取りで退路を塞いでいる。芸能人というのは、カメラの前での立ち位置だけでなく、一般男子高校生の逃走ルートを封じるポジショニングにも長けているらしい。
やめてほしい。
そういう実践的スキルを、俺相手に使わないでほしい。
「……あの、星宮さん」
俺は声を落として呼んだ。
周囲に聞こえないようにしたつもりだったが、近くの席の男子が露骨に耳をこちらへ傾けた。入学式の教室で聴覚を全振りするな。もっと新生活に向けて健全な努力をしてくれ。
星宮莉乃は、俺のほうへ顔を向けた。
笑顔は完璧だった。
完璧すぎて、逆に怖い。
「莉乃でいいよ」
「よくないです」
「昔は呼んでくれたのに」
「だから、その昔は今朝作成された設定ですよね?」
星宮莉乃の睫毛がぴくりと揺れた。
俺の言葉は、どうやら少しだけ彼女に刺さったらしい。ほんの一瞬、唇の形が迷子になる。けれど次の瞬間には、また綺麗な笑みに整えられていた。
「清太は記憶力が悪いもんね」
「昨日まで名前も知らなかった人に記憶力を責められる筋合いはないです」
「昨日は知らなかっただけ」
「それを普通は初対面って言うんですよ」
星宮莉乃は、そこでわずかに視線を逸らした。
勝った。
今、俺は明らかに論理で勝った。
しかし、勝利の余韻に浸る暇はなかった。なぜなら彼女は、論理で不利になった瞬間、表情で戦うタイプだったからである。
星宮莉乃はほんの少しだけ肩を落とし、俺の制服の袖をつまんだ。指先が布を軽く掴む。強く引くわけではない。ただ、離れるのが惜しいみたいに、そこに触れているだけ。
それだけで周囲の空気が変わった。
誰かが息を呑む。
別の誰かが、小声で「袖……」と呟く。
俺は心の中で叫んだ。
やめろ。
実況するな。
「……そんなに、嫌?」
星宮莉乃の声は小さかった。
教室のざわめきの隙間に落ちるような音だった。それなのに、なぜか俺の耳にははっきり届いた。彼女の視線は俺の顔を見ていない。少し下、俺のネクタイのあたりを見ている。さっき整えたばかりの結び目を、確認するように。
直接的に悲しそうな顔をしているわけではない。
むしろ、表情はよく保たれている。
ただ、袖をつまむ指先だけが、妙に頼りなかった。
これはずるい。
違う。ずるいというか、危険だ。
俺は悪くない。絶対に悪くない。幼馴染のフリを始めたのは向こうで、俺はそれを訂正しているだけだ。なのに、この状況だけ切り取ると、どう見ても俺が星宮莉乃を冷たくあしらっている男に見える。
入学式初日から社会的信用が崩壊しかけている。
「嫌というか、困ります」
「困るんだ」
「困ります」
「私が?」
「状況が」
「私じゃなくて?」
「……状況が」
星宮莉乃は、俺の袖をつまんだまま黙った。
その沈黙が、また周囲の好奇心を煽る。
俺は額に汗がにじむのを感じながら、必死で言葉を選んだ。強く否定しすぎると、彼女がまた変な反応をする。かといって受け入れれば、幼馴染設定が既成事実になる。
入学式前から、なぜこんな高度な危機管理を求められているのだろう。
「とにかく、自分の席に行ったほうがいいと思います。先生も来るだろうし」
俺がそう言うと、星宮莉乃は教室の前方へ視線を向けた。
それから入口横の座席表をもう一度確認する。
その動作で、俺は嫌な予感がした。
彼女の目が、俺の名前を追う。
次に、自分の名前を追う。
そして、ほんのわずかに口元が緩んだ。
「隣だね」
「え?」
俺も座席表を見た。
高原清太。
その右隣。
星宮莉乃。
神は死んだ。
いや、神どころか座席決めを担当した教師も、今日の俺に対して相当な悪意を持っている可能性がある。新入生の席順なんて出席番号順か何かだろうから、ただの偶然なのはわかっている。わかっているが、ここまで来ると運命という名の事故物件に入居させられた気分だった。
星宮莉乃は嬉しそうに目を細めた。
その笑顔に、さっきまでの作り物めいた完璧さは少し薄れていた。昨日、ベンチで漫画を抱えていたときに近い、油断した表情だった。
「やっぱり、そういうことなんだね」
「どういうことですか」
「運命」
「座席表です」
「運命の座席表」
「物騒な改変やめてください」
星宮莉乃はくすりと笑い、ようやく俺の袖から指を離した。
そのまま俺より先に席へ向かう。歩くだけで周囲の視線が吸い寄せられるのだから、やはり彼女は普通ではない。制服のスカートの揺れ方ひとつまで、どこか計算されているように見える。
俺は数秒遅れて、自分の席へ向かった。
席に着くと、右隣に星宮莉乃がいる。
机一つ分の距離。
昨日まではテレビや広告の中にいた存在が、今は俺の隣で鞄を開けている。現実感が薄い。しかもその本人は、机の横にかけた鞄から丁寧に何かを取り出した。
見覚えのある布。
俺のパーカーだった。
安物の、少し毛玉がついた、昨日彼女の肩にかけたパーカー。
それを星宮莉乃は、まるで貴重品でも扱うように畳んでいた。
「それ……持ってきたんですか」
「うん。返さなきゃいけないから」
「学校に?」
「だって、また会えるかわからなかったから」
そう言ってから、彼女は少しだけ目を伏せた。
その動作はほんの短いものだったが、俺の中で昨日の彼女の声が蘇る。
また、会えますか。
あのとき俺は、同じ作品が好きならそのうちどこかで会うかもしれない、と曖昧に返した。格好つけたつもりはない。むしろ逃げたに近い。けれど星宮莉乃は、たぶんその曖昧さを別の形で受け取ってしまった。
彼女はパーカーを両手で持ち、俺の机の上にそっと置いた。
「ありがとう」
その言葉は小さかった。
周囲に聞かせるためではない。本当に俺に返すためだけの声だった。
だから俺は、少しだけ返事に困った。
トップアイドルが幼馴染のフリをしてくるという異常事態の中で、ここだけは妙に普通だった。困っていた女の子を少し助けて、借りたものを返されて、礼を言われる。ただそれだけのやり取り。
その普通さが、逆に俺を黙らせた。
「……どういたしまして」
なんとかそう返すと、星宮莉乃は目を伏せたまま、パーカーの袖を指で撫でた。
「洗ってきたから」
「え、いや、そこまでしなくても」
「したかったの」
短い言葉だった。
けれど、妙に強かった。
彼女はそれ以上続けず、パーカーから手を離した。俺はそれを自分の鞄にしまおうとして、ふと昨日のことを思い出す。
彼女が男子たちに囲まれていたとき、俺はパーカーをかけた。顔を隠すために。彼女に触れないように、手首ではなく袖口を引いた。名前を聞かれても答えなかった。
あの行動が、星宮莉乃にとって何だったのか。
俺にはまだわからない。
ただ、彼女が今この瞬間、パーカーを返すだけで少し緊張していることだけはわかった。
教室の前方で、ドアが開く音がした。
担任らしき教師が入ってくる。
年齢は三十代半ばくらい。少し眠そうな目をしていて、手には出席簿を持っている。教室のざわめきが徐々に収まり、生徒たちは慌てて席に着いた。
俺も前を向く。
隣の星宮莉乃も、すっと姿勢を正した。さっきまで俺の袖をつまんでいた人物とは思えないほど、綺麗な優等生の座り方だった。背筋が伸び、膝が揃い、机に置いた手の位置まで美しい。
これが芸能人の切り替えか。
恐ろしい。
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