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幼馴染

 翌日。


 高校入学式。


 久しぶりに袖を通した制服は、思っていたより硬かった。新品のブレザーは肩まわりが少し窮屈で、シャツの襟も首元に馴染んでいない。鏡に映る自分は、どう見ても高校生という肩書きにまだ追いついていなかった。


 母親は俺の姿を見るなり、少しだけ目を細めた。


 何か言いたそうに口を開きかけて、結局「気をつけてね」だけを言った。その短い言葉にいろんなものが詰まっている気がして、俺は曖昧に頷いて家を出た。


 通学路には桜が咲いていた。


 満開というには少し早いが、枝先に開いた花びらが春の光を受けて淡く揺れている。歩道には同じ制服を着た生徒がちらほらいて、親と並んで歩く者もいれば、すでに数人で固まって笑っている者もいる。


 俺はそのどちらにも属さない位置を歩いた。


 誰かと目が合わないように、かといって不自然に俯きすぎないように。そんなことを考えながら歩いている時点で、やはり俺は普通から少し遅れているのだと思う。


 正門には入学式と書かれた看板が立てられていた。桜と校舎と新入生。いかにも青春の一ページという光景に、俺は少しだけ胸の奥を押されたような気分になった。


 親はあとから来るらしい。


 俺は教師に誘導され、新一年生が集まる教室へ向かった。


 廊下には新しいワックスの匂いが残っていた。壁に貼られた案内図、まだ誰のものでもない下駄箱、少し浮き足立った空気。中学の校舎とは違うはずなのに、学校特有の匂いだけはどこも似ている。


 教室の前で一度立ち止まる。


 入口の横には、クラス名簿と座席表が貼られていた。


 自分の名前を探す。


 高原清太。


 窓側から三列目、前から四番目。悪くない。前すぎず、後ろすぎず、目立ちすぎない位置だった。俺は心の中で小さく安心し、教室の扉へ手をかけた。


 中は、いろんな意味で落ち着かなかった。


 早くも隣の席の生徒と話している者がいる。スマホを片手にSNSの交換をしている者もいる。緊張した顔で席表を見つめている者もいれば、窓際でひとり外を眺めている者もいた。


 そして、その全部のざわめきを一段階引き上げている存在が、教室の中央付近にいた。


 そこだけ光の当たり方が違うように見えた。


 比喩ではなく、本当にそんな錯覚を起こすほど、彼女は目立っていた。


 茶色がかった長い髪。整った横顔。自然に背筋が伸びた立ち姿。制服を着ているだけなのに、校則という枠の中で最大限に華やかさを成立させている。周囲の生徒たちは露骨に見すぎないようにしながら、結局何度も視線を向けていた。


 俺も、そのざわめきの中心へ視線を向けた。


 そして息を止めた。


 昨日、ショッピングモールの本屋で出会った美少女が、そこにいた。


 ただし、昨日とは意味が違った。


 帽子も伊達眼鏡もない。肩にかけた俺の安物パーカーも当然ない。代わりに、彼女は校則通りの制服を完璧に着こなし、誰もが知っている顔としてそこに立っていた。


 教室のあちこちから聞こえてくるひそひそ声が、その正体を勝手に教えてくれる。


「あれ、星宮莉乃だよな?」


「本物? うちの学校に入ったって噂、マジだったんだ」


「去年ドラマ出てた人じゃん」


「CMで見たことある……」


「入学式前から学園のトップアイドル確定じゃん」


 星宮莉乃。


 やっぱり、昨日の彼女は本人だった。


 現役中学生モデル兼アイドル。最近テレビやネットでよく見る、透明感のあるルックスと、作り物みたいに綺麗な笑顔で話題になっていた存在。俺のような引きこもり気味のオタクでさえ、広告や動画のサムネで何度も見たことがある。


 その星宮莉乃が、昨日、俺と同じ漫画を手に取り、同じ言葉を口にしていた。


 しかも、俺はその本人にパーカーをかけて逃がした。


 脳がその情報を処理しきれず、俺は入口付近で固まった。


 その瞬間、星宮莉乃がこちらを見た。


 目が合った。


 彼女の瞳が、明らかに揺れた。


 昨日の本屋で見せた表情でも、広告の中の完璧な笑顔でもない。ずっと探していたものを見つけたみたいに、彼女はほんの一瞬だけ呼吸を忘れた顔をした。


 けれど次の瞬間、その表情は見事なまでに整えられた。


 さすが芸能人、というべきなのだろう。周囲の視線に気づくより早く、彼女は人前に立つための顔を作った。柔らかく、上品で、誰が見ても好感を持つ笑顔。


 そして彼女は、迷いなくこちらへ歩いてきた。


 教室のざわめきが、波のように割れる。


 俺は動けなかった。


 逃げるという選択肢が脳内に表示される前に、彼女は俺の目の前まで来ていた。


「あの……昨日は――」


 俺が先に口を開きかけた瞬間、星宮莉乃の視線が俺の肩越しへ流れた。


 教室の入口横。


 名簿と座席表。


 彼女の目が、ほんのわずかに文字を追った。


 高原清太。


 その四文字を読み取ったのだと、俺にはわかった。


 そして彼女は、俺に向き直った。


「おはよう、清太」


 名前。


 俺の名前が、彼女の口から出た。


 しかも、まるで毎朝そう呼んできたみたいな声だった。


 教室の空気が一段変わる。


 周囲の視線が一斉にこちらへ集まった。さっきまで星宮莉乃だけに向いていた注目が、今度は俺まで巻き込んでくる。黒板側にいた男子の口が半開きになり、女子の一人が小さく「え?」と漏らした。


 いや、待て。


 今、絶対に名簿を見た。


 昨日、俺は名前を教えていない。彼女は俺の名前を知らなかったはずだ。それなのに、入口横の名簿を一瞬見てから、いきなり下の名前で呼んできた。


 どう考えても、今仕入れた情報である。


 なのに星宮莉乃は、そんなことなど一切なかったような顔をしていた。


「久しぶりだね」


 さらに爆弾を落としてきた。


 教室のざわめきが膨らむ。


「久しぶり?」


「え、知り合い?」


「幼馴染とか?」


「星宮さんの?」


 俺の喉が詰まった。


 昨日会ったばかりの相手が、なぜか入学式の教室で幼馴染みたいな距離感をかましてきている。しかも相手はトップアイドル。こちらが反論する前に、周囲の人間が勝手に物語を組み立て始めている。


 星宮莉乃はそんな視線の中心で、俺のネクタイへ手を伸ばした。


「もう、相変わらずだね。ネクタイ、少し曲がってる」


 白い指先が、俺の胸元に触れる。


 距離が近い。


 近すぎる。


 近すぎるのに、彼女は本当に自然だった。久しぶりに会った幼馴染を世話するような、昔から何度もそうしてきたような手つきで、俺のネクタイを整えてくる。


 ただし、俺は見逃さなかった。


 彼女の指先は、ほんの少し震えていた。


 自然に見せようとしている。平然と距離を詰めている。けれど、実際にはかなり無理をしているのだろう。耳の先もわずかに赤い。頬も、作った笑顔の下で熱を持っている。


 昨日のことを覚えている。


 俺が名前を教えなかったことも、パーカーをかけたことも、好きなものを雑に扱われるのは嫌だと言ったことも、たぶん全部。


 そのうえで彼女は、今、幼馴染のフリをしている。


 意味がわからない。


 いや、意味がわからないのに、やっていることだけははっきりしている。


 トップアイドル星宮莉乃が、俺と昔から親しかったことにしようとしている。


「あ、あの……星宮さん?」


 俺が控えめに呼ぶと、星宮莉乃の指が止まった。


 彼女はゆっくりと顔を上げた。


 目が合う。


 笑顔の形は保たれている。けれど、睫毛が一度だけ不自然に揺れた。唇の端が、ほんの少しだけ下がりかけて、すぐに持ち直す。


「莉乃」


「え?」


「昔みたいに、莉乃って呼んでいいよ」


 教室の空気が、また一段おかしくなった。


 昔みたいに。


 そんな昔は存在しない。


 昨日、俺は彼女の名前すらちゃんと確認していなかった。彼女も俺の名前を知らなかった。なのに今、彼女は名簿で仕入れた俺の名前を当然のように口にし、自分のことを下の名前で呼ばせようとしている。


 幼馴染のフリが雑すぎる。


 だが、顔面と演技力で強引に成立させようとしてくるのが恐ろしい。


「いや、昔みたいにって……」

 

「清太は変わらないね」


 星宮莉乃は、俺の言葉をさらりと流した。


 そして、少しだけ目を伏せる。


 その仕草は綺麗だった。けれど綺麗すぎて、逆に台本のない舞台を見せられているような怖さがある。


「昔から、そうやってすぐ他人行儀になる」


 周囲が小さくどよめいた。


 俺は心の中で頭を抱えた。


 待て。俺は昔を知らない。そもそも昨日が初対面だ。なのに彼女の言葉には、なぜか妙な説得力があった。トップアイドルの表情管理能力と声の作り方が、ありもしない幼馴染設定に命を吹き込んでいる。


 俺が否定すればするほど、周囲には「何か事情がある二人」に見えてしまう。


 最悪だ。


 ラブコメなら最高の導入かもしれないが、当事者からすると完全に事故である。


「昨日、会ったばかりですよね?」


 できるだけ穏便に言った。


 その瞬間、星宮莉乃のまばたきが一拍だけ遅れた。


 笑顔は消えていない。


 ただ、彼女の指先が制服の袖をきゅっと握った。綺麗に整っていた袖に、小さな皺が寄る。瞳の奥にあった光が、ほんの少しだけ奥へ引っ込んだように見えた。


「……また、そういうこと言うんだ」


 声は小さかった。


 責めるようでも、怒るようでもない。むしろ、何かを飲み込むことに慣れている人間の声だった。


 その反応に、なぜか俺のほうが悪いことをした気分になる。


 いや、待て。


 俺は悪くないはずだ。


 昨日会ったばかりの相手に、入学式の教室で幼馴染ムーブをされたら、誰だって確認する。むしろ確認しないほうがおかしい。


 それなのに、星宮莉乃の表情を見ると、胸の奥に小さな罪悪感が生まれてしまう。


 彼女は一度だけ浅く息を吸い、それからいつもの綺麗な笑顔に戻した。


 戻した、というのがわかってしまう笑顔だった。


「いいよ。無理に思い出さなくても」


「いや、だから――」


「でも、私は覚えてるから」


 星宮莉乃は一歩近づいた。


 俺の視界いっぱいに、彼女の顔が入る。


 甘いシャンプーの匂いがした。近い。さっきよりさらに近い。周囲のざわめきが爆発寸前のところで押し殺されているのがわかる。


 彼女は、俺にだけ聞こえるくらいの声で囁いた。


「昨日、助けてくれたこと」


 その言葉だけは、嘘ではなかった。


 俺の胸元に触れていた彼女の指先が、ほんの少しだけ熱を帯びる。近すぎる距離の中で、彼女の瞳がまっすぐ俺を捉えていた。


「私のこと、星宮莉乃として見なかったこと。名前も聞かずに、好きなものを大事にしてくれたこと。そういうの、全部……覚えてる」


 さっきまでの幼馴染設定とは違う。


 その声には、妙な温度があった。


 昨日のベンチで、彼女が漫画を両手で受け取ったときの表情が蘇る。フードの下で少し赤くなった耳。名前を聞こうとして、俺に断られたときの顔。あのとき彼女が何を思ったのか、俺にはわからない。


 けれど今の彼女を見る限り、俺が思っていたよりもずっと、あの一瞬は彼女の中に残ってしまったらしい。


 星宮莉乃は、ふっと視線を落とした。


 それから、なぜか勝ち誇るように笑った。


「だから、今日から幼馴染でいいよね」


「よくないです」


 即答した。


 星宮莉乃の唇が、ほんの少しだけ固まった。


 長い睫毛が揺れる。笑顔の輪郭だけが残り、その中身が一瞬だけ抜け落ちたように見えた。彼女はすぐに顔を整えたが、袖を握る指先に力が入っているのは隠せていない。


「……清太は昔から照れ屋だもんね」


「今作りましたよね、その昔」


「作ってないよ。これから思い出を増やして、昔にするだけだから」


「時系列が無茶苦茶なんですが」


 周囲の誰かが小さく吹き出した。


 その笑いをきっかけに、教室の空気が少しだけ緩む。けれど注目は消えない。むしろ、星宮莉乃が俺と普通に会話しているという事実が、どんどん教室中に浸透していく。


 星宮莉乃は、俺の手元に視線を落とした。


 彼女の目が少しだけ柔らかくなった。


「ねえ、清太」


「なんですか」


「敬語、やめて」


「無理です」


「幼馴染なのに?」


「幼馴染じゃないので」


 彼女の肩がわずかに落ちた。


 その動きは、本当にわずかだった。周囲から見れば、たぶん気づかない程度。けれど近くにいた俺には見えてしまった。


 唇を結ぶ力。


 視線が一瞬だけ下がる間。


 次の笑顔を作るまでの、ほんの短い空白。


 昨日の彼女を助けたときもそうだったが、星宮莉乃は人前で笑うのが上手い。上手すぎるせいで、笑うまでに生まれる小さな綻びのほうが、やけに目立つ。


 彼女はすぐに顔を上げた。


「じゃあ、予約」


「予約?」


「清太の幼馴染ポジション、予約しておくね」


「そんな席、存在しません」


「作るから大丈夫」


「大丈夫じゃないです」


 入学式前の教室で、学園のトップアイドルと何を話しているのだろう。


 俺はただ普通に高校生活を送りたかっただけだ。普通に登校し、普通に授業を受け、普通に帰る。目立たず、波風を立てず、中学で失ったものを少しずつ取り戻せればそれでよかった。


 なのに、目の前の少女は俺の計画を初日から踏み荒らしてくる。


 しかも彼女は、それを悪気なくやっているわけではない。


 たぶん、わかったうえでやっている。


 昨日、俺が名前を教えなかったから。


 昨日、俺が彼女を星宮莉乃として扱わなかったから。


 昨日、俺があまりにも中途半端に、ラブコメ主人公みたいな行動をしてしまったから。


 その結果、トップアイドル星宮莉乃は、今朝、入口の名簿で俺の名前を知り、教室中の前で幼馴染のフリを始めた。


 理不尽にもほどがある。


 けれど彼女の瞳は、冗談だけでは片づけられない温度を帯びていた。


「これからよろしくね、清太」


 星宮莉乃はそう言って、俺のネクタイから手を離した。


 直されたばかりの結び目が、やけに落ち着かない。


 教室のざわめきは収まらない。むしろ、俺たちの周りだけ変な熱を持っている。誰かがこそこそとスマホを確認し、誰かが俺の顔と星宮莉乃の顔を見比べている。


 その中心で、彼女だけが綺麗に笑っていた。


 そして俺は確信した。


 俺の高校生活は、たぶん普通にはならない。


 というか、始まる前からすでに詰んでいる。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。

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