隣にいたい(星宮視点)
――見捨てないで。
その言葉を口にした瞬間、私は自分の中にある一番柔らかくて、一番みっともない部分を、清太に見せてしまったのだと思った。
昇降口の冷たい空気。
夕焼けに染まった床。
部活へ向かう生徒たちの声が、遠くで水の中みたいにぼやけていた。
目の前には清太がいる。
私の両手は、彼の腕を掴んでいた。強く掴んでいるつもりはないのに、指先に力が入ってしまう。離したら、そのまま彼がどこかへ行ってしまいそうだった。
清太は困った顔をしていた。
当たり前だ。
数日前会ったばかりの女に、突然幼馴染だと言われて、距離を詰められて、挙げ句の果てに泣きながら縋られている。
普通なら引く。
普通なら怖いと思う。
普通なら、もう関わりたくないと思う。
それでも、私は手を離せなかった。
清太が私から視線を逸らした瞬間、胸の奥がぎゅっと縮んだ。冷たい指で心臓を掴まれたみたいだった。
ああ、嫌だ。
その顔をしないで。
私を遠ざける準備をしないで。
あの日、私を助けてくれたときの清太は、そんな顔をしていなかった。
ショッピングモールで男の人たちに囲まれたとき、私は笑い方を忘れかけていた。星宮莉乃としてなら、対応の仕方は知っている。困ったときの笑顔も、やんわり断る声も、相手を傷つけない距離の取り方も、仕事の中で何度も覚えた。
でも、あの日はうまくできなかった。
好きな漫画を手に持っていただけだった。
ほんの少しだけ、普通の女の子みたいに本屋で好きな本を選んでいただけだった。
それなのに、私の名前を誰かが口にした瞬間、その時間は終わった。
星宮莉乃。
その名前は便利だ。
たくさんの人が振り向いてくれる。笑ってくれる。褒めてくれる。求めてくれる。
でも、ときどき、その名前が私自身より先に歩いていく。
私はまだ何も言っていないのに、周りはもう私を知っている顔で近づいてくる。
そんなとき、清太だけが違った。
彼は私の名前を呼ばなかった。
写真も求めなかった。
事情も聞かなかった。
ただ漫画を拾って、私の肩にパーカーをかけてくれた。
『好きなものを雑に扱われるのは嫌じゃないですか』
あの言葉が、今もずっと耳の奥に残っている。
私のことを大事にしてくれたわけじゃないのかもしれない。
彼にとっては、落ちた漫画を拾っただけだったのかもしれない。
それでも、私には十分すぎた。
私の名前より先に、私の好きなものを見てくれた。
私が星宮莉乃かどうかより先に、私が怖がっていることに気づいてくれた。
それだけで、心の中のずっと空いていた場所に、すとんと彼が入ってしまった。
だから今日、彼に怒鳴られたとき、息ができなくなった。
『俺の何がわかるんだよ』
その言葉は、正しい。
私は清太のことを知らない。
彼の過去も、傷も、一人でいたがる理由も、全部知らない。
知らないのに、幼馴染みたいな顔をした。
知っているふりをした。
だって、そうしないと隣に立つ理由がなかったから。
出会ったばかりの女の子では、清太に近づく理由が弱すぎる。
クラスメイトでは、その他大勢と同じになってしまう。
星宮莉乃では、彼が一番嫌がる距離になってしまう。
だから、幼馴染になりたかった。
昔から知っていることにすれば、彼の隣にいても不自然じゃない。
名前を呼んでも、袖を掴んでも、一緒に帰りたいと言っても、少しだけ許される気がした。
馬鹿みたい。
自分でもわかっている。
でも、清太に「もう関わるな」と言われた瞬間、そんな言い訳は全部崩れた。
足元がなくなった。
あの日から今日までの短い時間が、私にとってどれだけ大きかったのか、清太は知らない。
清太が教室で私のことを完全に否定しなかったこと。
昼休みに、私と『青春いらない』の話をしてくれたこと。
私といると気楽だと、少しだけでも言ってくれたこと。
その一つ一つを、私は大事に拾っていた。
まるで、誰かが落とした小さな宝石を両手で集めるみたいに。
なのに、清太は簡単に終わらせようとした。
もう関わるのはやめてくれ。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが音を立てて割れた。
嫌。
嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
清太がいなくなるのは嫌。
私を見ない清太も嫌。
他の誰かには普通に笑って、私には困った顔だけ向ける清太なんて嫌。
清太の過去に私がいないのは仕方ない。
でも、これからの清太の中にも私がいないなんて、それは嫌だった。
「だから、私のことを見捨てないで」
言葉にしたら、涙がこぼれた。
泣くつもりなんてなかった。
泣けば困らせるとわかっていた。
でも、止まらなかった。
清太は私の手をそっと外した。
その瞬間、また心臓が冷たくなった。
ああ、終わる。
そう思った。
彼は私から離れるために手を外したのだと思った。
けれど違った。
清太は、頭を下げた。
「さっきはごめん」
その声を聞いた瞬間、私は泣いている場合ではなくなった。
清太が謝っている。
私に。
私みたいな、勝手に距離を詰めて、勝手に傷ついて、勝手に縋った面倒くさい女に。
完全に俺が悪かった、と彼は言った。
忘れてほしい、とも言った。
忘れるわけがない。
忘れられるわけがない。
清太が怒った顔も、苦しそうな顔も、謝るために私から距離を取った手つきも、全部覚えていたいと思った。
ひどいことを言われたのに。
胸が痛かったのに。
それでも、彼の知らない顔をひとつ見られたことが、少しだけ嬉しかった。
そんな自分が怖い。
清太の優しいところだけじゃ足りない。
困った顔も、怒った声も、罪悪感に揺れる目も、全部ほしいと思ってしまう。
清太が私に見せたものなら、痛みでさえ大事にしたくなる。
「忘れないよ」
私は涙を拭って、そう言った。
清太は少し困った顔をした。
その顔を見て、また胸がきゅっとなった。
だめ。
そんな顔をされたら、もっと困らせたくなる。
もっと私のことで頭をいっぱいにしてほしくなる。
もっと、逃げられない理由を作りたくなる。
『責任は取ります』
清太がそう言った瞬間、私は自分の中の暗い部分が、ゆっくり顔を上げるのを感じた。
責任。
その言葉は、甘かった。
まるで鎖みたいだった。
清太が自分から私に渡してくれた、細くて頼りない鎖。
私はそれを、そっと両手で受け取った。
強く引っ張ったら切れてしまう。
怖がらせたら、彼はきっと逃げる。
だから、優しく持たないといけない。
でも、絶対に離したくない。
「じゃあ、『青春いらない』の最新刊、一緒に買いに行こうよ」
私はできるだけ普通に言った。
泣いた後の声が震えないように。
重すぎる気持ちが滲まないように。
でも、清太のことをもっと知りたいという言葉だけは、本当だった。
彼の好きな作品。
彼の好きなカード。
彼が一人を選ぶ理由。
彼が誰にも見せたくない過去。
全部知りたい。
知って、覚えて、私だけのものにしたい。
清太が自分のことを嫌っていても、私だけはその全部を拾いたい。
清太が「どうしようもない」と思っている部分まで、私が名前をつけて、大事にしまっておきたい。
そうすれば、彼はもう私を簡単には遠ざけられない。
私だけが知っている清太が増えれば増えるほど、私たちは本物の幼馴染に近づいていく。
過去がないなら、これから作ればいい。
思い出がないなら、今日のことを何度も心の中で撫でればいい。
清太が私を拒んだことも、私が泣いたことも、彼が謝ったことも、一緒に最新刊を買いに行く約束をしたことも。
全部、私たちの思い出になる。
そう思うと、涙の跡がまだ頬に残っているのに、笑えてしまった。
清太はそれを見て、少し疲れたような顔をしていた。
かわいい。
そう思った。
ひどいことを言われたばかりなのに。
怖かったのに。
見捨てられそうになって、胸が潰れそうだったのに。
それでも、清太が私のことで困っているのを見ると、胸の奥が温かくなる。
清太の感情が、私に向いている。
怒りでも、困惑でも、罪悪感でもいい。
無関心よりずっといい。
私を見てくれるなら、どんな感情でも、最初はそれでいい。
「今日は一緒に帰ろ」
私は言った。
清太は断ろうとした。
その気配がわかった。
だから、私は何も言わずに彼を見た。
目元が赤いままの私を見て、清太は少しだけ言葉に詰まった。
ずるい。
自分でもそう思う。
でも、使えるものは使いたかった。
泣いた後の顔でも、震えた声でも、幼馴染という嘘でも。
清太の隣にいられるなら、私はきっと何でも使ってしまう。
「途中までなら」
清太がそう言った。
胸の中に、柔らかいものが広がった。
途中まで。
それでもいい。
今日はそれでいい。
明日はもう少し先まで。
週末は本屋まで。
その次は、清太の好きなカードショップまで。
少しずつ、少しずつ、清太の生活の中に私の場所を作っていく。
気づいたときには、彼が私のいない日常を寂しいと思うくらいに。
清太が私から離れようとしたとき、自分でも驚くほど怖かった。
でも同時に、わかってしまった。
私はもう、清太の隣を諦められない。
たった一日で重すぎる。
わかっている。
でも、好きになるのに必要な時間なんて、誰が決めたのだろう。
私にとっては、あの日のあの一瞬で十分だった。
名前を聞かずに助けてくれた、あの一瞬で。
昇降口を出ると、夕方の風が頬を撫でた。
泣いた跡が少し冷たい。
隣には清太がいる。
彼は前を向いて歩いているけれど、時々こちらを気にしているのがわかった。
それだけで嬉しかった。
清太の中に、私を気にする場所がある。
今は小さくてもいい。
罪悪感でもいい。
責任でもいい。
幼馴染という嘘でもいい。
私はそこに座る。
そして、少しずつ広げていく。
清太が一人になりたいとき、そこに私がいるのが自然になるように。
清太が好きなものを語るとき、隣に私がいるのが当たり前になるように。
清太が傷ついた過去を思い出すとき、最初に私の名前を呼んでしまうように。
「清太」
「なんですか」
「日曜日、楽しみだね」
「……償いですから」
償い。
その言葉に、私は少しだけ笑った。
清太はまだ気づいていない。
償いは、続けられる。
責任は、積み重ねられる。
約束は、増やせる。
私は彼の隣を歩きながら、心の中でそっと呟いた。
大丈夫。
今はまだ幼馴染じゃなくてもいい。
いつか清太が、私のことをそう呼ばずにはいられなくなるくらい、たくさんの思い出を作ればいい。
清太が私を見捨てない理由を、ひとつずつ増やしていけばいい。
夕焼けの道を、私たちは並んで歩いた。
清太との距離は、まだ指先が触れないくらい。
でも、それでいい。
今日は。
私は制服の袖の中で、そっと自分の手を握った。
掴みたい。
本当は、今すぐ清太の手を掴みたい。
でも、我慢する。
清太が逃げない速度で近づく。
清太が気づかないくらい自然に、でも絶対に逃がさないように。
彼の隣を歩きながら、私は静かに息を吐いた。
――見捨てないで。
さっき口にしたその言葉は、まだ胸の奥で疼いている。
けれど今は、その痛みさえ愛おしかった。
だってその痛みは、清太が私にくれたものだから。
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