最終回 青春はいらない、なんてもう言わない
初回放送の翌日、教室へ入った瞬間、俺と莉乃は少しだけ足を止めた。
昨日までと同じ朝のはずだった。黒板には一限目の教科名が書かれ、窓際の席では篠崎が半分眠りながら机へ頬を乗せ、清華はスマホを片手に誰かと楽しげに話している。文化祭の装飾も、告白直後の騒ぎも、アニメ情報解禁時の熱狂も、時間が経てば学校生活の中へゆっくり溶けていく。けれど、その平凡な朝の中に、昨日の放送を見た生徒たちの視線が確かに混ざっていた。
アイドルとしての星宮莉乃。
アニメの雨宮雪乃役としての星宮莉乃。
そして、俺の恋人として隣を歩く莉乃。
たった一人の女の子に、いくつもの名前が重なっていく。それを重荷だと感じる日もあるのだろう。昨日の夜、俺の胸で泣いた莉乃の震えを思い出せば、彼女がどれほど怖さを抱えながら画面の向こうへ声を届けていたのか、今の俺には少しだけわかる。
けれど、莉乃は逃げなかった。
だから俺も、逃げたくなかった。
「高原くん、星宮さん」
清華が俺たちに気づき、にやりと笑った。
「見たよ、第一話」
その一言を皮切りに、教室のあちこちから声が上がった。雪乃の声がよかった。原作買ってみた。思っていたよりずっと合っていた。次回も見る。そんな感想が、照れも冷やかしも混ざった声で莉乃へ届いていく。
莉乃は少し驚いたように瞬きをして、それから深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
仕事用の完璧な笑顔ではなかった。
少し泣きそうで、けれど本当に嬉しそうな、ただの星宮莉乃の笑顔だった。
俺はその横顔を見ながら、胸の奥が静かに満たされていくのを感じていた。昔の俺なら、この眩しさに耐えられなかったかもしれない。誰かが認められ、祝福され、自分の居場所を広げていく姿を見るたび、そこに混ざれない自分を惨めに感じていただろう。けれど今は、莉乃が受け取る拍手を、自分のことのように誇らしいと思える。
好きな人が前へ進むことを、心から喜べる。
それもまた、青春なのだと思った。
昼休み、俺たちはいつもの倉庫裏へ向かった。
そこは相変わらず狭く、華やかさなど欠片もない場所だった。古い倉庫の壁と、頭上に細く切り取られた空。初めて莉乃が俺の逃げ場所を見つけ、勝手に幼馴染のふりをして距離を詰めてきた日から、ずいぶん遠くまで来た気がする。
弁当を広げる前に、莉乃は俺の隣へ座り、そっと肩を寄せてきた。
「清太」
「なに?」
「昨日の感想、まだ足りない」
「結構言っただろ」
「何回聞いても足りない」
莉乃はそう言って、少しだけ意地悪そうに笑った。
以前のように、捨てられることを恐れて縋る笑顔ではない。もちろん彼女の重さが消えたわけではないし、俺への執着が突然軽くなったわけでもない。それでも今の莉乃は、自分が愛されていることを少しずつ信じ始めている。だからこそ、好きだと言葉にする俺を、嬉しそうに待てるようになったのだろう。
「莉乃の雪乃、よかったよ」
「うん」
「俺が好きだった作品を、もっと好きにしてくれた」
「うん」
「それと……莉乃のことも、前よりもっと好きになった」
莉乃は、目を見開いた。
次の瞬間、彼女の頬が赤く染まる。普段は俺をからかう側なのに、不意打ちには弱いらしい。
「清太、ずるい」
「ずるくないだろ」
「急にそういうこと言うの、心臓に悪い」
「莉乃はいつも言わせようとするじゃん」
「自分から言われるのは別なの」
莉乃は俺の肩へ額を預け、小さく笑った。
俺は弁当を開きながら、ふと鞄の中に入っている『青春いらない!!』第一巻へ視線を落とした。かつて逃げ場所だった物語。そこに書かれていた台詞は、今でも好きだ。青春なんていらないと呟く真冬の痛みも、手を伸ばそうとする雪乃の怖さも、俺はもう否定しない。
ただ、今ならその続きを言える。
「莉乃」
「なに?」
「俺さ、もう青春はいらないって言わないと思う」
莉乃が顔を上げた。
「本当に?」
「うん。怖いことはまだあるし、人に見られるのも苦手だし、たぶんこれからも面倒なことは言う。でも、莉乃と過ごした時間を、いらないとは思えない」
文化祭も、告白も、初めて手を繋いだ朝も、倉庫裏で食べた弁当も、好きな作品を一緒に読んだ時間も、莉乃の挑戦を待った夜も、初回放送を見届けた瞬間も。
その全部が、今の俺を作っている。
「青春って、眩しいだけじゃないんだな」
「うん」
「怖くて、面倒で、恥ずかしくて、時々逃げたくなる。でも、それでも誰かと一緒にいたいって思える時間なんだと思う」
莉乃はしばらく俺を見つめていた。
やがて、彼女は俺の手を取り、小指へ二度触れた。
一度。
二度。
大丈夫。
近くにいる。
好き。
俺も同じように返す。
その合図は、もう不安を埋めるためだけのものではなかった。これから先、どれだけ忙しくなっても、どれだけ立場が変わっても、俺たちは互いに戻る場所でいる。そう確かめるための、小さな約束だった。
「清太」
「うん」
「これからも、私の隣にいてくれる?」
「いるよ」
「アイドルの私も、雪乃の私も、重い私も?」
「全部まとめて莉乃だろ」
「清太のこと、ずっと好きでいてもいい?」
「それは俺が聞きたいくらいだよ」
莉乃は泣きそうに笑った。
「好き。ずっと好き」
「俺も、莉乃が好きだ」
今度は、教室でも、文化祭の舞台裏でも、夜の公園でもない。
狭い倉庫裏の片隅で、俺たちは当たり前のように好きだと言い合った。
恋が始まる瞬間だけが物語ではない。
誰かを好きになったあと、その手を離さず、日々の中で何度も選び直していくことも、きっと物語なのだと思う。
青春なんていらない。
そう言っていた俺は、もういない。
俺はこれからも、莉乃と一緒に、自分たちの青春の続きを生きていく。




