初回放送の夜
第一弾PVが公開されてから、放送開始までの時間は、驚くほど早く過ぎていった。
莉乃はアフレコを重ねるたび、少しずつ雪乃としての声を自分の中へ馴染ませていった。最初の頃は、収録後に必ず俺へ「今日の雪乃、変じゃなかったかな」と不安そうに尋ねてきたが、回を追うごとにその言葉は変わっていった。今日の雪乃は少し強すぎたかもしれない。あの場面は真冬を責めるより、自分の弱さを隠す感じにしたかった。そうやって、単に評価を求めるのではなく、役をよりよくするための悩みを話すようになっていた。
俺はそのたびに原作を開き、台詞の前後を確認し、ファンとして思ったことを伝えた。専門家ではない俺の意見がどれほど役に立つのかはわからない。それでも莉乃は、俺の言葉をいつも真剣に聞いてくれた。恋人として甘える時間と、作品へ向き合う時間。その二つが放課後の部屋や、夜の通話の中で混ざり合い、俺たちの関係は以前よりも静かに深くなっていった。
そして、ついに初回放送の日が来た。
その日は朝から、学校の空気までどこか落ち着かなかった。『青春いらない!!』はもともと原作人気が高く、アニメ化発表以降、クラスの中でも何人かが原作を読み始めていたらしい。昼休みになると、清華が俺の席へやって来て、わざとらしく腕を組んだ。
「今日だね」
「何が?」
「まだとぼける? 高原くんの人生を変えた作品の初回放送」
「大げさだな」
「でも間違ってないでしょ?」
俺はすぐには否定できなかった。
確かに『青春いらない!!』は、俺にとって単なる娯楽以上の作品だった。青春を拒む主人公に自分を重ね、現実で上手くいかない感情を物語の中へ逃がしていた。そんな作品がアニメになり、そのヒロインを莉乃が演じる。人生を変えたと言われれば、少し恥ずかしいが、たぶん間違ってはいない。
「星宮さんも見るんでしょ?」
「見るよ」
莉乃が俺の隣で答えた。
「清太と一緒に」
教室の空気が一瞬だけ止まった。
付き合っていることはすでに知られている。それでも、好きな作品の初回放送を恋人同士で見るという事実は、なかなかの破壊力を持っていたらしい。清華がにやりと笑い、篠崎が眠たげな声で「青春だね」と呟いた。
以前の俺なら、この一言で顔を背け、何か言い訳を探していただろう。
けれど今は、少しだけ頬が熱くなりながらも、逃げたいとは思わなかった。
「うん。見る」
俺が認めると、清華は満足そうに頷いた。
「じゃあ明日、感想聞かせてね。ファンとしての高原くんと、彼氏としての高原くん、どっちが勝ったか」
「何の勝負だよ」
「たぶん両方負けるよ」
篠崎が妙に確信した声で言った。
俺は反論したかったが、正直なところ、放送前からすでに負けている気がしていた。
※ ※ ※
夜、俺は莉乃の部屋にいた。
放送は深夜枠だったが、配信サイトでも同時に見られるようになっており、俺たちはノートパソコンをローテーブルに置いて、開始時刻を待っていた。部屋には原作一巻、台本、収録時に莉乃が書き込んだメモ、そして俺がこれまで作ってきた付箋だらけの解釈ノートが並んでいる。
好きな作品の初回放送を迎える部屋としては、かなり濃い。
だがそれ以上に、隣にいる莉乃の緊張がすごかった。
「清太」
「なに?」
「放送が終わったあと、もし駄目だったら正直に言って」
「わかった」
「でも、少し優しく言って」
「どっちなんだよ」
「原作ファンとしては正直に。恋人としては優しく」
「難しい注文だな」
「清太ならできる」
莉乃はそう言いながら、俺の袖を掴んでいた。
彼女は今日、星宮莉乃としてではなく、雨宮雪乃を演じた一人の役者として、結果を待っている。すでに収録は終えているのに、世間へ届く瞬間はまた別の怖さがあるのだろう。
配信ページのカウントダウンがゼロになる。
俺は莉乃へ視線を向けた。
「見るぞ」
「うん」
再生ボタンを押す。
画面が暗転し、静かなピアノの音が流れ始めた。
冒頭、宮野真冬が一人で教室に座っている。窓の外では部活動の声が遠く響き、夕焼けが机の影を長く伸ばしていた。作画も演出も、原作の寂しさを大切にしている。真冬のモノローグが入った瞬間、俺は自然と息を止めていた。
『青春なんて、いらない』
何度も読んだ台詞。
かつての俺が、心の中で何度も頷いた言葉。
けれど今、その言葉は以前ほど俺に刺さらなかった。共感できなくなったわけではない。ただ、その先にあるものを、俺はもう知っている。誰かと関われば傷つく。だけど、傷つく可能性ごと抱えても、隣にいたいと思える人がいる。
そして、雪乃が登場した。
莉乃の声が、画面の中で響く。
『あなた、本当に逃げるのが上手ね』
冷たい言い方なのに、どこか寂しい。
強く見せているのに、ほんの少しだけ揺れている。
その声を聞いた瞬間、俺は隣にいる莉乃の手を握っていた。人目のない部屋だから、もう小指だけの合図に留める必要はない。莉乃も画面を見つめたまま、俺の手を握り返してくる。
第一話は、あっという間に終わった。
エンディングが流れ、次回予告で雪乃が真冬へ淡々と告げる。
『次は、逃がさないから』
その声を聞いた瞬間、俺は思わず笑ってしまった。
莉乃が恐る恐るこちらを見る。
「清太……どうだった?」
俺はすぐに答えなかった。
軽い言葉で済ませたくなかったからだ。原作ファンとして、恋人として、この時間を一番近くで見届けてきた人間として、きちんと伝えたかった。
「俺さ」
「うん」
「この作品、昔は逃げ場所として好きだった」
莉乃は黙って聞いていた。
「でも今は違う。今日見て、やっぱり好きだと思った。逃げるためじゃなくて、前に進んだ自分で見ても、ちゃんと好きだと思えた」
俺は莉乃の手を強く握った。
「莉乃の雪乃がいたから、もっと好きになった」
その瞬間、莉乃の表情が崩れた。
彼女は声を殺すように唇を噛み、それでも涙を止められず、俺の胸へ倒れ込むように抱きついてきた。
「よかった……」
「うん」
「清太に、そう言ってほしかった……」
「本当によかったよ」
俺は莉乃を抱きしめながら、画面に映るエンディングの最後を見つめた。
SNSでは、きっと今頃たくさんの感想が流れているだろう。褒める声も、不安を口にする声も、厳しい意見もあるはずだ。だが今この瞬間、莉乃が最初に聞きたかった感想は、俺の言葉だった。
その重さが、少しだけ誇らしかった。
青春なんていらない。
そう言っていた俺は、今、好きな人の声で好きな物語が始まった夜を、一生忘れたくないと思っている。
けれど俺たちの物語は、ようやく自分たちの声で未来を語り始めたばかりだった。




