好きな人の声で、好きな物語が動き出す
初収録を終えてから、莉乃の日常は以前よりも忙しくなった。
学校へ来ているときの彼女は、いつもどおり完璧な星宮莉乃だった。授業中は丁寧にノートを取り、休み時間には清華や篠崎と自然に会話をし、俺と目が合えば、誰にも気づかれないように机の下で小指を二度動かす。けれど放課後になると、彼女は事務所の車に乗り込み、アフレコ、取材、歌番組、雑誌撮影、そして再びアフレコという日々の中へ戻っていった。
恋人になったからといって、毎日一緒に帰れるわけではない。
手を繋いで寄り道をすることも、放課後の教室で他愛ない話を続けることも、莉乃の仕事が詰まっている日は難しい。それでも、以前なら寂しさを理由に不安を膨らませていた俺は、今では少しだけ違う気持ちで彼女を待てるようになっていた。
莉乃は俺から離れているのではない。
俺の好きな物語の中で、雪乃として戦っている。
そう思うだけで、待つ時間にも意味が生まれた。
そしてある日の夜、莉乃から短いメッセージが届いた。
『明日、第一弾PVが公開される』
その一文を見た瞬間、俺は布団の上でスマホを握りしめたまま固まった。
第一弾PV。
アニメ化作品において、原作ファンが最初に作品の空気を確認する重大な儀式である。絵柄、音楽、演出、キャラクターの表情、そして声。すべてが期待と不安を背負って数十秒の映像に凝縮される。しかも今回は、雨宮雪乃の声を莉乃が担当している。俺にとっては、単なる推し作品のPVではない。好きな人が、俺の好きなヒロインとして、初めて世間へ声を届ける瞬間だった。
『一緒に見てほしい』
続けて届いたメッセージに、俺はすぐ返信した。
『見る。絶対に一緒に見る』
翌日の放課後、俺たちは莉乃の部屋にいた。
PV公開時刻は午後八時。ローテーブルの上にはノートパソコンが置かれ、その横には原作第一巻と、莉乃が収録で使った台本のコピーが並んでいる。公開まで残り十分を切っているにもかかわらず、莉乃は画面を直視できないらしく、俺の隣でクッションを抱えたまま小さく膝を抱えていた。
「清太」
「なに?」
「私、変な声だったらどうしよう」
「収録で監督に何度も確認されてるだろ」
「でも、清太が聞くのは初めてだから」
「練習では聞いた」
「あれは練習。完成した映像に乗った声を聞くのは初めて」
莉乃の不安は、ただ世間の反応を恐れているだけではなかった。
彼女が一番気にしているのは、俺がどう聞くかだった。俺が長年大切にしてきた雪乃の声として受け入れられるのか。彼女自身が、それを誰よりも知りたがっている。
「莉乃」
「うん」
「俺は原作ファンとして見る。だから、ただ褒めるだけはしない」
莉乃が息を呑む。
「でも、恋人としても見る。莉乃がどれだけ向き合ってきたか知ってるから、怖いところも含めてちゃんと聞く」
「……うん」
公開時刻になった。
画面上のサムネイルが更新され、再生ボタンが表示される。
俺は莉乃へ視線を向けた。
「押すぞ」
「待って」
莉乃が俺の袖を掴む。
数秒の沈黙。
やがて、彼女は震える小指で俺の小指へ二度触れた。
俺も返す。
「大丈夫」
そう言ってから、再生ボタンを押した。
暗転した画面に、夕暮れの教室が映る。
窓辺に座る宮野真冬の横顔。机の上に置かれた文庫本。遠くから聞こえる部活動の声。淡いピアノの音が流れ、真冬のモノローグが重なる。
『青春なんて、いらない』
その一言だけで、俺の胸は強く締めつけられた。
ページの中で何度も読んだ言葉が、音になり、映像になっている。俺が逃げ道として抱えていた物語が、本当に動き出していた。
そして次の瞬間、教室の扉が開く。
雨宮雪乃が立っていた。
長い髪を揺らし、涼しげな表情で真冬を見つめる。美しい作画だった。だが俺の意識は、その口元が動いた瞬間、完全に奪われた。
『あなたはいつも、誰かが手を伸ばす前にいなくなるのね』
莉乃の声だった。
けれど、莉乃ではなかった。
強くて、少し冷たくて、けれど奥に寂しさがある。真冬を責めているようで、本当は置いていかれたくないと叫んでいる。俺と何度も解釈を話し合い、台本に向き合い、失敗して泣き、それでもマイクの前から逃げなかった莉乃の全部が、雨宮雪乃という少女の声になっていた。
PVは一分ほどで終わった。
最後にタイトルロゴが表示され、放送時期と主題歌情報が流れる。
再生が止まっても、俺はしばらく何も言えなかった。
「清太……?」
莉乃の声が震えている。
「どうだった?」
俺は画面を見つめたまま、ゆっくり息を吐いた。
「雪乃がいた」
それ以上の言葉は、すぐに出てこなかった。
褒めようとしたわけではない。慰めようとしたわけでもない。ただ、映像の中に本当に雨宮雪乃がいたと思った。俺が本で読んできた彼女が、莉乃の声で息をしていた。
莉乃は一瞬だけ固まり、それから両手で顔を覆った。
「よかった……」
泣き出した彼女を、俺はそっと抱きしめた。
「清太にそう言ってもらいたかった」
「うん」
「ずっと、それだけが怖かった」
「ちゃんと届いたよ」
莉乃は俺の胸へ額を押しつけ、何度も頷いた。
そのあと二人でSNSを見た。
反応は、完全な称賛だけではなかった。まだ不安だという声も、アイドル起用に納得していない声もあった。けれど同時に、想像より合っていた、雪乃の寂しさが出ていた、星宮莉乃を見る目が変わったという感想も確かに流れていた。
莉乃は一つ一つの言葉を、逃げずに見ていた。
「全部の人に認めてもらうのは、やっぱり無理だね」
「うん」
「でも、届いた人もいる」
「いるよ」
「清太にも届いた」
「一番届いた」
莉乃は泣き笑いの顔で俺を見上げた。
「じゃあ、もっと頑張れる」
俺はその言葉を聞いて、改めて思った。
青春なんていらないと拒んでいた俺が、今では誰かの挑戦を本気で誇らしいと思っている。
好きな人の声で、好きな物語が動き出した。
それは、俺の青春が確かに形を持った瞬間でもあった。
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