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雪乃の声

 情報解禁から数日間、莉乃の周囲は静かに、けれど確実に変わっていった。


 学校では直接的な騒ぎこそ起きなかったものの、休み時間になるたび別クラスの生徒が廊下から彼女を覗き込み、スマホを手にしたまま何かを言い合う姿が増えた。星宮莉乃という名前はもともと学校の中でも特別だったが、そこへ『青春いらない!!』という別の熱量が重なったことで、彼女はアイドルとしてだけではなく、今度は原作ファンの期待と不安を背負う存在になっていた。


 俺も当然、その視線の一部だった。


 恋人として莉乃を心配する気持ちはある。けれど同時に、原作ファンとして彼女がどんな雪乃を作り上げるのか見届けたいという思いも抑えられなかった。莉乃本人の前ではあまり浮かれないよう気をつけているが、鞄の中には第一巻と付箋だらけのノートが常備され、放課後になると自然に台詞合わせの準備をしてしまうあたり、俺の中のオタクはだいぶ正直だった。


「高原くんって、本当にその作品好きなんだね」


 昼休み前、清華が俺の机に置かれたノートを覗き込みながら呆れたように笑った。


「好きというか、人生の逃げ道だった時期がある」


「言い方が重い」


「でも今は逃げ道じゃなくて、莉乃を応援するための資料になってる」


 口にしてから、少し照れくさくなった。


 清華は一瞬だけ目を丸くし、それからわざとらしく口元を押さえる。


「うわ、彼氏だ」


「やめろ」


「完全に彼氏の発言だったよ、今の」


「事実確認を大声でするな」


 からかわれて視線を逸らすと、少し離れた席で莉乃がこちらを見ていた。会話の内容までは聞こえていないはずだが、俺が自分のために作品ノートを開いていることだけは伝わったのだろう。彼女は机の下で小指を二度動かした。


 俺も、誰にも見えないように二度返す。


 大丈夫。


 近くにいる。


 好き。


 その合図は、学校の中で恋人らしく振る舞えない俺たちにとって、いつの間にか呼吸のように自然なものになっていた。


 ※ ※ ※


 初収録の日、莉乃は朝からほとんど笑わなかった。


 緊張しているのは明らかだったが、それはオーディション前の震えるような不安とは少し違っていた。合格するために全力を尽くせばよかったあの時とは違い、今日からは作品を作る側の一人として、何度もマイクの前に立たなければならない。自分の解釈を出し、監督や音響監督の指示を受け、他の声優たちと呼吸を合わせて、文字だった雪乃を声のある存在へ変えていく。


 俺は収録現場へついていけるわけではない。


 だから朝、駅前で見送ることしかできなかった。


「清太」


 迎えの車が来るまでの短い時間、莉乃は帽子のつばを指先で触りながら、何度も俺の顔を見た。


「もし、上手くできなかったら」


「練習しただろ」


「した。でも、本番は違う」


「なら、本番で違ったことも次の練習に入れればいい」


 俺がそう言うと、莉乃は少し驚いたように瞬きをした。


「一回で完璧じゃなくていいんだよ。雪乃は今日だけで終わる役じゃない。これから何話もかけて、莉乃の中で育っていくんだと思う」


「清太、たまにすごく優しいこと言う」


「たまにかよ」


「普段は照れて逃げる」


「否定できないのが腹立つな」


 莉乃はようやく少し笑い、鞄の陰で俺の小指へ触れた。


 一度。


 二度。


 俺も返す。


「行ってくる」


「行ってらっしゃい」


 車の扉が閉まる直前、莉乃はもう一度こちらを見た。俺は何も言わず、小さく頷く。それだけで彼女は表情を引き締め、仕事へ向かう星宮莉乃の顔になった。


 その日の放課後、俺は自分の部屋で落ち着かない時間を過ごした。


 開いているのは『青春いらない!!』第一巻。収録されているはずの場面を何度も読み返しながら、莉乃の声を想像する。真冬を責めるのではなく、置いていかれることを恐れる雪乃。強く見せながら、手を伸ばせなかった過去を抱えた少女。


 文字を追うたび、俺は莉乃の顔を思い出した。


 誰かを好きになったことで、作品の読み方まで変わってしまった。以前は真冬の逃げたさばかりに共感していたのに、今では雪乃が追いかける側としてどれほど怖かったのかもわかる。置いていかれるほうにも痛みがある。それを俺に教えたのは、間違いなく莉乃だった。


 夜になって、スマホが震えた。


『終わった』


 すぐに返信する。


『どうだった?』


 少し間が空いてから、次のメッセージが届いた。


『清太に聞いてほしい』


 俺は上着を掴み、いつもの公園へ向かった。


 ベンチに座っていた莉乃は、俺を見るなり立ち上がった。泣いてはいない。けれど、その表情は今にも何かがあふれそうなほど揺れていた。


「お疲れさま」


 俺がそう言うと、莉乃はゆっくり近づいてきた。


「最初、全然だめだった」


「そうなのか?」


「マイクの前に立ったら、頭が真っ白になった。声も少し上ずって、音響監督さんに何回も止められた」


 莉乃は悔しそうに笑った。


「でも、途中で清太と練習したことを思い出したの。雪乃になろうとしすぎなくていい。私が考えた雪乃を見せればいいって」


「うん」


「そしたら、最後のテイクで、監督さんが言ってくれた。今の雪乃はよかったって」


 その瞬間、莉乃の瞳に涙が浮かんだ。


「私、ちゃんと一歩目を踏み出せた気がした」


 俺は何も言わず、莉乃を抱きしめた。


 トップアイドルでも、選ばれた声でもなく、ただ怖がりながら挑戦して、それでも逃げなかった一人の女の子を。


「莉乃の雪乃、早く聞きたい」


「まだまだだよ」


「それでも聞きたい」


「清太にそう言ってもらえるなら、私、次も頑張れる」


 莉乃は俺の胸元で小さく息を吐いた。


「ねえ、清太」


「なに?」


「私、雪乃を演じてるとき、何度も思ったの。真冬に逃げないでって言うたびに、昔の清太に言ってるみたいで。でも同時に、今の清太ならきっと逃げないって思えた」


「逃げないよ」


「うん。知ってる」


 莉乃は顔を上げ、柔らかく笑った。


 その表情を見たとき、俺はようやく理解した。


 莉乃だけが雪乃として前へ進んでいるわけではない。


 俺もまた、真冬に似ていた自分から、少しずつ離れていっている。


 青春なんていらないと呟いていた少年は、好きな人の挑戦を待ち、その帰りを迎え、次の収録を一緒に喜べるところまで来ていた。


 物語は確かに終わりへ向かっている。


 けれど俺たちの青春は、終わるためではなく、続いていくためにページをめくっているのだと思った。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。

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