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75話 情報解禁の日

 情報解禁日は、思っていたよりもあっけなくやって来た。


 莉乃が雨宮雪乃役に決まってから二週間ほどのあいだ、俺たちは秘密を抱えたまま普段どおりの日常を過ごしていた。学校ではクラスメイトに怪しまれないようにしながら、昼休みには倉庫裏で原作の解釈を語り、放課後には莉乃の部屋や俺の部屋で台詞合わせを続けた。最初は合格の喜びに浮かれていた俺も、収録用の仮台本や監督からの演技メモを見せてもらうたび、これは本当に仕事なのだと実感し、オタクとしての興奮とは別の緊張を覚えるようになっていた。


 好きな作品がアニメになる。


 そのヒロインを、好きな人が演じる。


 文字にすれば夢みたいな出来事だが、夢と違って現実には責任がある。台詞の一つでファンの印象は変わり、キャスト発表のたった一行で、名前も顔も知らない誰かから評価される。俺がページをめくるだけで楽しんでいた物語の内側へ、莉乃は本当に足を踏み入れようとしているのだ。


 そしてその日、昼休み直前の教室で、公式アカウントがついに動いた。


 俺のスマホが震えたのは、四限目終了のチャイムが鳴った直後だった。通知欄に表示された『学園ラブコメに青春はいらない!! 公式』の文字を見た瞬間、心臓が一度だけ強く跳ねる。隣の席では莉乃も同じ通知を見たらしく、シャープペンを握ったまま固まっていた。


 俺は周囲に悟られないよう、できる限り自然な動作でスマホを開いた。


『TVアニメ「学園ラブコメに青春はいらない!!」メインキャスト解禁! 宮野真冬役・榊悠真/雨宮雪乃役・星宮莉乃』


 その一文を読んだ瞬間、胸の奥に押し込めていたものが、一気にあふれそうになった。


 叫びたい。


 机を叩きたい。


 この教室の全員に向かって、「お前ら見たか、俺の好きな作品のヒロインが、星宮莉乃だぞ」と宣言したい。けれどそんなことをすれば、情報解禁一分で恋人の仕事を爆破する男になってしまう。俺は唇を固く結び、震えそうになる指先を机の下で握りしめた。


「……高原くん」


 背後から聞こえた清華の声に、俺は肩を揺らした。


「な、何?」


「今、公式見た?」


「何の?」


「しらばっくれるの下手すぎ。顔が完全にオタクの勝利顔だよ」


 清華はそう言いながら、自分のスマホ画面をこちらへ向けた。そこには俺がたった今見たものと同じキャスト発表が表示されている。篠崎咲も眠たそうな目を少しだけ開き、画面と莉乃を見比べていた。


「……星宮さん、すごい」


「ありがとう」


 莉乃は笑顔で答えた。


 さすがと言うべきか、その表情は驚くほど落ち着いている。だが俺にはわかった。机の下で、彼女の小指がこちらを探している。人目のある教室で触れるわけにはいかない。それでも、合図が欲しいのだろう。


 俺は教科書を取り出すふりをしながら、机の陰でほんの一瞬だけ小指を差し出した。


 莉乃の指が二度触れる。


 俺も二度返した。


 大丈夫。


 近くにいる。


 好き。


 声に出せないまま交わした合図は、今日ほど意味を持ったことがなかった。


「でも、星宮さんが雪乃かぁ。めちゃくちゃ話題になりそうだね」


 清華の言葉どおり、数分もしないうちにSNSではキャスト発表が拡散され始めた。好意的な反応も多い。星宮莉乃がアニメに挑戦することを歓迎する声、原作ファンとして期待する声、ビジュアルだけなら雪乃そのものだと騒ぐ声。しかし当然、それだけではなかった。


 アイドル起用か。


 声優じゃないのに。


 話題性優先じゃないか。


 まだ演技を聞いてもいない人々の言葉が、画面の中で次々と流れていく。


 俺は慌ててスマホを閉じた。


 見るべきではないと思った。まして莉乃本人に見せるべきものではない。そう考えた瞬間、莉乃が俺の横から小さく呟いた。


「清太」


「見なくていい」


「でも、見ないわけにはいかないよ」


 莉乃の声は震えていなかった。


 怖くないはずがない。批判されて平気なはずがない。それでも、彼女は自分が立つ場所から目を逸らそうとはしていなかった。


「ちゃんと知っておきたい。期待してくれる人も、不安に思ってる人もいるって」


「全部受け止める必要はないだろ」


「全部は無理。でも、私が雪乃を演じるって決まった以上、逃げたくない」


 その言葉に、俺は何も返せなかった。


 かつて青春から逃げ続けていた俺の隣で、莉乃は今、何万人もの視線が集まる場所から逃げないと言っている。俺が彼女を守りたいと思うことと、彼女自身が前へ進むことは、同じではない。守るつもりで視線を遮れば、それは彼女が向き合おうとしている覚悟まで奪うことになる。


 昼休みになると、俺たちはいつもの倉庫裏へ向かった。


 人目がなくなった瞬間、莉乃は俺に抱きついてきた。今度は俺もすぐに抱き返す。教室で凛としていた彼女の身体は、腕の中で小さく震えていた。


「怖かった」


「うん」


「でも、嬉しかった。名前が出た瞬間、本当に雪乃になるんだって思った」


「莉乃ならできるよ」


「清太は、私の雪乃を信じてくれる?」


「信じる」


 俺は彼女の背中を撫でながら、ゆっくり答えた。


「原作ファンとしても、恋人としても、信じる」


 莉乃は俺の制服を強く掴んだ。


「じゃあ私、頑張る。清太が好きな物語を、ちゃんと好きなまま見られるように」


「違う」


「え?」


「好きなままじゃなくて、もっと好きにさせてくれ」


 莉乃の瞳が揺れた。


 やがて彼女は、泣きそうに笑った。


「それ、すごく重い注文だよ」


「莉乃なら受けられるだろ」


「うん」


 その日の昼休み、俺たちは弁当を食べながら、もう一度『青春いらない!!』第一巻の話をした。真冬が雪乃から逃げようとする場面。雪乃がそれを追いかける場面。誰かと関わることを拒んでいた少年が、初めて自分を待つ人の存在に気づく場面。


 物語の中の青春と、現実の俺たちの青春が、いよいよ重なり始めていた。


 俺たちの物語も、逃げずに最後のページへ向かい始めていた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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