私はあなたを好きでいたい!
莉乃のオーディションから三日が経った。
結果が出るまでの日常というものは、想像以上に落ち着かない。俺自身が受験したわけでもなければ、結果によって俺の人生が直接左右されるわけでもない。それなのに授業中、スマホを確認できない時間が妙に長く感じられ、休み時間になるたび莉乃の表情を無意識に探してしまう。
もっとも、本人は俺以上に落ち着いていなかった。
「……清太」
昼休み。
いつもの倉庫と倉庫の隙間――かつて俺が孤独を満喫するために発見し、今では完全に莉乃との共有スペースへ侵略されてしまった元マイホームで、俺は隣に座る莉乃へ呆れた視線を向けていた。
「スマホ見るの、今日だけで何回目?」
「十二回」
「数えてたのかよ」
「だって、事務所から連絡来るかもしれないし……」
莉乃は弁当を膝へ置いたまま、スマホの画面を見つめている。通知が来るたびに肩を跳ねさせ、確認しては露骨に落胆するという行為を、昼休みだけで何度も繰り返していた。
トップアイドルともなれば、普通なら通知など大量に届くだろう。その一つ一つに期待して精神を削られているのだから、このままでは合否が届く前に莉乃の情緒が敗北する。
「いったんスマホ貸して」
「嫌」
「依存症患者みたいになってるぞ」
「清太にだけは言われたくない。『青春いらない!!』のアニメ化発表された日、公式アカウント三十秒おきに更新してたじゃん」
「それとこれは違う」
「どう違うの?」
「俺のは情報収集」
「私のも結果収集」
「強い言葉を作るな」
そう返しながら、俺はようやく少し安心した。
オーディション直後は、自分の演技を何度も振り返って曇っていた莉乃だったが、三日も経てば多少は普段の調子を取り戻している。結果を恐れていることに変わりはなくても、俺の前では冗談を返せる程度には余裕が戻ったらしい。
だからこそ、俺は何気なく彼女の弁当へ視線を向けた。
「莉乃、全然食べてないじゃん」
「食欲なくて」
「卵焼きだけでも食べろよ」
「じゃあ清太が食べさせて」
「なんでそうなる」
「緊張して箸が持てない」
「さっき普通にスマホ持ってただろ」
莉乃は聞こえないふりをして口を開けた。
完全に甘える気だ。
俺は周囲に誰もいないことを確認し、彼女の弁当から卵焼きを摘まんで口元へ運んだ。莉乃は満足そうに食べ、頬を緩ませる。
付き合う前なら、こんなことをしただけで青春コンプレックスが発作を起こしていたに違いない。
――美少女にあーん?
――そんなイベントは二次元限定だろ!
――リア充文化を現実へ持ち込むな!
などと心の中で血涙を流していただろうが、慣れというものは恐ろしい。今では俺自身が自然に莉乃へ食べさせている。
……待て。
これ、青春への完全敗北では?
俺が人生の重大な敗北に気づいた、その瞬間だった。
莉乃のスマホが震えた。
空気が止まる。
莉乃の表情から笑みが消えた。
「……清太」
「確認しろ」
「怖い」
「俺もいるから」
莉乃は一度だけ深く息を吸い、スマホを手に取った。
画面を開く。
事務所のマネージャーから届いたメッセージだった。
俺は内容を覗かない。ただ、莉乃の横顔だけを見つめる。
数秒。
十秒。
莉乃は動かなかった。
「莉乃?」
反応がない。
嫌な予感が胸を締めつけた。落ちたのかもしれない。そう思い、何を言えば彼女を傷つけずに済むのか考え始めたところで――莉乃のスマホが手から落ちた。
「おい――」
「……受かった」
「え?」
「受かった……!」
莉乃が顔を上げる。
その瞳には大粒の涙が浮かんでいた。
「雪乃役……私だって……!」
次の瞬間、莉乃が俺へ飛びついた。
勢いに耐えられず、背中が倉庫の壁へぶつかる。それでも俺は彼女を受け止め、震える身体へ腕を回した。
「清太……っ、受かった……私、雪乃になれる……!」
「うん」
「清太が好きな作品に、私が出られる……!」
「うん。おめでとう、莉乃」
俺まで胸の奥が熱くなった。
好きな作品のアニメ化だけでも、オタクとしては祭りである。
そこへ推しているヒロイン役として、自分の恋人が出演する。
もはや意味がわからない。
俺の人生、ラブコメ作品として考えれば編集者から「さすがに主人公へ都合が良すぎませんか?」と赤字を入れられる段階へ突入している。
「清太」
「ん?」
「私、頑張るから」
莉乃は俺の胸元から顔を上げた。
「清太がずっと好きだった雪乃を、もっと好きになってもらえるように頑張る」
「それは困る」
「……え?」
莉乃の表情が固まった。
まずい。
言葉が足りなかった。
「違う。雪乃を好きになるのはいいんだけど、莉乃がまた『私と雪乃どっちが好き?』とか聞き始めそうだから」
「聞くよ?」
「聞くの!?」
「だって私が演じるんだよ? 清太が雪乃のことばっかり可愛いって言い始めたら、私、自分の演じてるキャラに嫉妬するかもしれない」
「地獄みたいな三角関係を作るな」
「清太、私、雪乃の声で『好き』って言えるようになるんだよ?」
「……」
想像した。
雨宮雪乃の告白場面。
それを莉乃の声で聞く。
しかも俺は、その莉乃本人と付き合っている。
オタクとしての脳と恋人としての脳が同時に処理落ちした。
「清太、顔真っ赤」
「うるさい」
「ふふっ。楽しみにしててね」
莉乃は涙を拭いながら笑った。
俺はその笑顔を見つめながら、改めて思う。
俺が好きになった女の子は、学校では誰よりも目立ち、芸能界では多くの人間から名前を知られ、それでも不安になれば俺のところへ来る。そして今度は、俺がずっと好きだった物語の中へまで飛び込もうとしている。
ならば俺がすることは、一つしかない。
「莉乃」
「なに?」
「絶対見るよ。毎週リアタイする」
「……うん!」
「録画もする。配信でも見る。円盤も買う」
「そこまで!?」
「推し作品を舐めるな」
「じゃあ私のグッズも?」
「買う」
「いっぱい?」
「財布が許す限り」
莉乃は嬉しそうに笑ったあと、俺の肩へ額を預けた。
「じゃあ私も頑張る。清太に、一番近くで応援してもらいたいから」
青春なんていらない。
かつて本気でそう思っていた。
なのに今では、恋人の夢が叶ったことを自分のことのように喜び、これから始まる彼女の新しい挑戦を楽しみにしている。
どうやら俺の青春コンプレックスは、莉乃によって少しずつ、それも随分と面倒な形で上書きされ続けているらしい。
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