72話 合否が出るまで
待ち合わせ場所に指定されたのは、オーディション会場から二駅ほど離れた小さな公園だった。
以前、莉乃が事務所との話し合いを終えたあとにも会った場所であり、駅前の喧騒から少し離れているため、帽子やマスクで顔を隠していれば人目につきにくい。俺は自宅から急いで向かったものの、公園へ着いた時点で莉乃はすでに奥のベンチへ座っており、両手で鞄を抱えたまま、街灯の落とす淡い光をぼんやりと見つめていた。
遠くからでは、その表情を読み取れない。
オーディションを満足に終えられたのか、それとも何か大きな失敗をしたのか。送られてきた二行のメッセージには、普段の莉乃が必ずつけるはずの絵文字も、俺を安心させようとする言葉もなかった。
俺は足音を抑えながら近づいた。
「莉乃」
名前を呼ぶと、彼女の肩がわずかに揺れた。
顔が上がる。
帽子の影に隠れた瞳は赤く見えたが、泣いた跡なのか、緊張と疲労によるものなのかまではわからない。それでも俺を見つけた瞬間、張り詰めていた表情が少しだけ崩れた。
「清太」
「待たせた?」
「ううん。私も今来たところ」
明らかな嘘だった。
莉乃の隣にある自動販売機の飲み物は、すでに半分ほど減っている。おそらく俺が到着するまでの間、一人で何度も同じことを考え続けていたのだろう。
俺は結果を急かさず、莉乃の隣へ腰を下ろした。
触れようと思えば触れられる距離ではあったが、すぐに抱きしめることはしなかった。今の莉乃が求めているものが、慰めなのか、祝福なのか、それともただ黙って隣にいることなのか判断できなかったからだ。
だからまず、鞄の陰で小指を差し出した。
莉乃はその指を見つめ、ゆっくり自分の小指を二度触れさせる。
俺も二度返した。
大丈夫。
近くにいる。
好き。
声に出さなくても伝えられる、俺たちだけの合図だった。
「オーディション、どうだった?」
俺が静かに尋ねると、莉乃はしばらく俯いたまま答えなかった。
「わからない」
「わからない?」
「できたと思うところもある。でも、終わったあとになって、あそこは違ったかもしれないとか、もっと別の言い方があったかもしれないとか、ずっと考えてる」
莉乃の指が鞄の持ち手を強く握り込む。
「最初の台詞はちゃんと雪乃として言えた。でも途中で、清太と練習したときのことを思い出したの。真冬がいなくなろうとする場面で、また自分の気持ちが出そうになって、それを止めようとしたら、今度は声が弱くなりすぎた気がする」
その言葉を聞きながら、俺は莉乃が泣いていた理由を理解した。
失敗したと決まったわけではない。
むしろ、本人の中に手応えがあったからこそ、もっと上手くできた可能性を捨てられずにいるのだろう。結果を待つしかない時間の中で、自分の演技を何度も頭から再生し、直すことのできない部分ばかりを探している。
「審査してた人たちは、何か言ってた?」
「原作をよく読んでいるのが伝わったって。それから、台詞の意味をどう考えたかも聞かれた」
「何て答えた?」
「雪乃は真冬を責めたいんじゃなくて、自分を置いていかないでほしいんだって答えた。でも、それだけだと私自身の話みたいに聞こえたかもしれない」
「似てる感情を使ったこと自体は、悪くないんじゃないか」
「でも、雪乃じゃなくて私に聞こえたら意味がないよ」
莉乃の声がわずかに強くなり、すぐに弱まった。
「清太が大切にしてる作品だから、ちゃんとしたかった。アイドルだから呼ばれただけじゃなくて、私が雪乃を理解してるって認めてほしかった」
誰よりも原作へ真剣に向き合ったからこそ、莉乃は自分へ求める水準を高くしすぎている。
俺は演技を実際に聞いていない以上、無責任に完璧だったとは言えなかった。合格すると断言することもできない。しかし、結果がどうであれ変わらない事実なら伝えられる。
「莉乃」
「なに?」
「俺は、今までよりもっと『青春いらない!!』が好きになったよ」
予想していなかったのか、莉乃がゆっくり顔を上げた。
「オーディションを受けるって決まってから、俺たちは一巻から読み直して、雪乃が何を考えてるか何度も話しただろ。俺一人で読んでたときには気づかなかったこともあったし、莉乃が雪乃に似てる部分だけじゃなく、違う部分も少しわかった」
「違う部分?」
「雪乃はまだ、自分の好きって気持ちを言えない。でも莉乃は、怖くても俺に何度も言ってくれた。逃げた俺を追いかけて、待つことも覚えて、それでも隣にいてくれた」
莉乃の瞳が揺れる。
「だから、莉乃が役を取れるかどうかとは別に、俺にとって今回の時間はもう意味があった。莉乃が真剣に向き合ってくれたことで、俺も作品をもっと好きになれた」
「でも、受かってほしい?」
「もちろん受かってほしいよ」
俺は迷わず答えた。
「莉乃の雪乃を、アニメで聞きたい。でも落ちたとしても、莉乃の努力がなくなるわけじゃないし、俺が失望することもない」
「悔しくない?」
「悔しいとは思う。莉乃と一緒に」
「一緒に?」
「うん。受かったら一緒に喜ぶし、落ちたら一緒に悔しがる。どっちにしても、莉乃だけで抱えなくていい」
言葉を聞いた莉乃の顔が、ゆっくり歪んだ。
次の瞬間、彼女は鞄を脇へ置き、俺の胸へ飛び込んできた。俺はその身体を受け止め、細かく震える背中へ腕を回す。街灯の届きにくい公園の奥にはほかに誰もおらず、今だけは周囲の視線を気にする必要もなかった。
「清太、怖かった」
「うん」
「もし落ちてたら、清太にがっかりされるかもって思った。もう雪乃の話をしたくないって思われるかもって」
「そんなこと思わないよ」
「私より、別の人の雪乃を好きになる?」
「演じる人が誰でも、雪乃は雪乃だろ」
「じゃあ私が受かったら?」
「莉乃の雪乃を一番応援する」
それでも不安が消えないのか、莉乃は俺の制服を掴む手へさらに力を込めた。
「私自身は?」
「一番好きだよ」
口にした瞬間、胸元の莉乃が完全に動きを止めた。
「清太」
「なに?」
「もう一回言って」
「一回で聞こえただろ」
「今のは、役の話じゃなくて?」
「莉乃自身の話だよ」
俺は少し身体を離し、彼女の顔を見た。
瞳の端には涙が溜まっている。
「役を取れても、取れなくても、俺が一番好きなのは莉乃だよ」
莉乃の涙がこぼれた。
俺は親指でそれを拭い、そのまま頬へ手を添える。莉乃は何も言わず、俺の手へ顔を預けながら目を閉じた。
結果はまだ出ていない。
不安も消えていない。
それでも今は、合格か不合格かを考える時間ではなく、挑戦を終えて帰ってきた莉乃を迎える時間なのだと思った。
俺は彼女の唇へ、短く口づけた。
「お疲れさま、莉乃」
唇が離れたあと、莉乃は泣きながら笑った。
「ただいま、清太」
「おかえり」
その言葉を交わしたとき、莉乃の肩からようやく力が抜けた。
合否の連絡が来るまで、あと数日。
俺たちはまだ答えのない時間の中にいた。
けれど少なくとも、莉乃は一人で結果を待つ必要がなくなっていた。
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