オーディションの結果
オーディション当日までの一週間、莉乃はこれまで見たことがないほど真剣に、雨宮雪乃という一人の少女へ向き合い続けた。
学校では普段どおりに過ごし、放課後になれば仕事へ向かい、その合間に台本を読み込む。帰宅が遅くなった日にも短い通話をつなぎ、俺が真冬の台詞を読み上げると、莉乃は声だけで雪乃の感情を表現しようと何度も同じ場面を繰り返した。最初は自分自身の不安や執着が強く滲みすぎていた演技も、回数を重ねるごとに少しずつ整理され、雪乃が強い言葉を選ぶ理由や、決して表へ出さない寂しさが輪郭を持ち始めていた。
俺には演技の専門的な良し悪しなど判断できない。それでも、長年『青春いらない!!』を読み続けてきた一人の読者として、雪乃らしいと思える瞬間はわかった。台詞の語尾を必要以上に震わせず、感情を見せまいとする強さを残しながら、その奥にある恐怖だけをわずかに滲ませる。莉乃がその声を出せたとき、俺は台本を読んでいるはずなのに、原作の場面がそのまま目の前へ立ち上がるような感覚を覚えた。
そしてオーディション前日の夜、最後の練習を終えた莉乃は、俺の部屋の床へ座ったまま、台本を両手で抱えるようにして俯いていた。
「怖い?」
俺が尋ねると、莉乃は小さく頷いた。
「落ちることも怖いけど、受かったあとに原作の人たちから認めてもらえないことのほうが怖い。アイドルだから選ばれたって言われるかもしれないし、雪乃はこんな声じゃないって思われるかもしれない」
普段の莉乃は、自分の容姿やアイドルとしての実力に対して、必要以上に卑下することはない。多くの人間から期待される立場にいるからこそ、表へ出す自信が仕事の一部であることも理解している。しかし今回は、彼女自身が大切にしてきた作品だからこそ、評価される側へ立つ怖さを隠しきれないのだろう。
「批判されないようにするのは無理だと思う」
俺は綺麗な慰めを選ばず、正直に答えた。
「莉乃がどれだけ頑張っても、アイドルが声優をやること自体を嫌がる人はいるだろうし、別の人の声を想像してた読者もいる。でも、それを理由に受けないなら、莉乃の雪乃を聞ける可能性までなくなる」
「清太は、聞きたい?」
「聞きたいよ。俺が好きな雪乃を理解しようとして、一週間ずっと悩んできた莉乃の演技を、ちゃんと作品の中で聞いてみたい」
俺がそう言うと、莉乃は抱えていた台本へ視線を落とし、少しだけ唇を噛んだ。誰かから求められた正解を完璧に演じることに慣れている彼女にとって、自分の解釈を信じて差し出すことは、きっと俺が文化祭で輪の中へ入るよりも怖い挑戦なのだと思う。
「落ちても、清太は失望しない?」
「しない」
「雪乃になれなくても?」
「莉乃は莉乃だろ。役を取れたかどうかで、俺が好きになった部分が変わるわけじゃない」
莉乃は顔を上げ、確かめるように俺を見つめた。
「本当に?」
「本当に。むしろ、挑戦した莉乃をもっと好きになると思う」
言ってから、かなり直接的な言葉だったことに気づいたが、取り消すつもりはなかった。以前の俺なら、相手へ期待を持たせることを恐れ、曖昧な表現へ逃げていただろう。けれど今は、不安に沈んでいる莉乃へ届かせるためなら、好きだという気持ちを何度でも言葉にしたいと思える。
莉乃はしばらく何も言わずに俺を見つめたあと、ゆっくり身体を寄せ、胸元へ額を預けてきた。
「清太のためにも受かりたい」
「俺のためだけにするなよ」
「自分のためでもある。でも、清太が大好きな雪乃を、私の声でも好きになってほしい」
「もうかなり好きになってるよ」
「まだ足りない」
「欲張りだな」
「清太の一番になりたいから」
作品のヒロインにまで嫉妬するのはどうかと思ったが、その重さも含めて莉乃らしかった。俺は彼女の髪を撫でながら、明日の予定を確認し、練習を早めに切り上げることにした。
※ ※ ※
翌日、オーディション会場へ向かう莉乃とは、駅前で一度だけ顔を合わせた。
仕事用の車が迎えに来るまでの短い時間であり、人目もあったため抱きしめることも手を繋ぐこともできなかったが、莉乃の表情には昨夜とは違う緊張が浮かんでいた。帽子のつばを指先で何度も触り、俺へ何かを言おうとしては飲み込んでいる。
「莉乃」
「なに?」
「小指」
俺は鞄の陰で、自分の小指を差し出した。
莉乃がそこへ二度触れる。
俺も二度返した。
大丈夫。
近くにいる。
好き。
声に出せない三つの意味を確かめると、莉乃の呼吸がわずかに整った。
「雪乃になろうとしすぎなくていいと思う」
「どういうこと?」
「莉乃が考えた雪乃を見せてくればいい。正解を当てるんじゃなくて、この役をやりたいって人たちに伝えるんだよ」
俺自身、偉そうに助言できる立場ではない。それでも文化祭で、誰かが求める正しい自分ではなく、怖がっている本当の自分を出したことで受け入れてもらえた経験が、少しでも莉乃の役に立つなら伝えたかった。
「清太は待っててくれる?」
「うん」
「終わったら、最初に連絡していい?」
「待ってるよ」
「受からなかったって思って泣いてても?」
「そのときは話を聞く」
「受かった気がして嬉しくなってても?」
「一緒に喜ぶ」
「清太」
「なに?」
「行ってくる」
莉乃は覚悟を決めたように笑った。
「行ってらっしゃい」
やがて迎えの車が到着し、莉乃が乗り込む。扉が閉まる直前までこちらを見ていた彼女へ小さく手を振り、車が見えなくなるまでその場へ残った。
結果が出るのは、早くても数日後らしい。
俺にできることはもうない。
それでも、不思議と以前のような無力感はなかった。結果を代わりに選ぶことはできなくても、帰ってきた莉乃を迎えることはできる。
誰かの挑戦を待つということも、きっと隣にいる方法の一つなのだろう。
その日の夕方、俺のスマホに届いたのは、合否を知らせる連絡ではなかった。
『終わった』
『清太に会いたい』
たった二行。
けれど、その文章からは結果を予想できなかった。
俺はすぐに上着を掴み、待ち合わせ場所へ向かった。
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