好きなキャラの演じ方
莉乃が『学園ラブコメに青春はいらない!!』のアニメ版オーディションを受けると決めてから、俺たちの放課後は、これまでとは少し違った意味で作品に染まり始めた。
もともと原作について語り合う時間は多かったが、今は単に好きな場面を挙げたり、登場人物の心情を考察したりするだけでは終わらない。雪乃がどの場面で声を強くし、どの言葉の裏に本音を隠しているのか。真冬へ向けた棘のある台詞が、本当に突き放すためのものなのか、それとも自分を見てほしいという願いの裏返しなのか。俺たちは原作一巻から読み返し、付箋を貼り、互いの解釈が食い違えば、ページを遡って根拠となる文章を探した。
気づけば莉乃のローテーブルには、原作全巻と設定資料集、ドラマCDの特典冊子まで積み上がっていた。
恋人の部屋へ通う理由としては、あまりにも健全で、あまりにもオタクらしい。
「ここ、雪乃は怒ってるんじゃないと思う」
莉乃は台本として抜き出された一枚の紙を指さしながら言った。
オーディションで使用されるのは、原作第一巻の終盤、真冬がクラスメイトとの約束を勝手に断り、一人で帰ろうとする場面だった。雪乃は彼を呼び止め、『あなたはいつも、誰かが手を伸ばす前にいなくなるのね』と告げる。
文字だけを追えば、責めているようにも見える台詞だ。
「怒ってないなら、どういう感情なんだ?」
「怖いの。今日もいなくなって、このまま二度と戻ってこないかもしれないって思ってる」
「でも、この時点ではまだ恋愛感情を自覚してないだろ」
「自覚してなくても、失いたくないとは思ってるよ」
莉乃の指が、紙の端をそっと握り込む。
「名前がついてないだけで、好きだったんだと思う」
その言葉が作品の考察だけではないことは、俺にもわかった。
莉乃もまた、俺への感情へ明確な名前をつけるより前から、俺が離れることを恐れていた。幼馴染のふりまでして距離を詰めたのは、自分でも整理できない執着を、何か自然な関係へ置き換えたかったからなのだろう。
「じゃあ、怒鳴る感じにはしないほうがいいな」
「うん。強く言おうとはするけど、最後だけ少し声が震える感じ」
「やってみる?」
俺が台本を手に取ると、莉乃は姿勢を正した。
それまで俺へ身体を寄せていた恋人の顔から、少しずつ余分な感情が消えていく。アイドルとしてカメラの前に立つときとは違う。雪乃の心を自分の内側へ探しに行くような、静かな集中だった。
俺も真冬の台詞へ目を落とす。
「別に、俺がいなくても困るやつはいないだろ」
口にした瞬間、自分で選んだ言葉ではないはずなのに、胸の奥が鈍く痛んだ。
かつての俺なら、同じことを本気で言っていた。
自分がいなくても誰も困らない。むしろ関わらないほうが相手のためになる。そう決めつけることで、誰かに必要とされなかったときの痛みから逃げていた。
莉乃の表情が変わる。
「あなたはいつも、そうやって勝手に決めるのね」
雪乃の声だった。
普段の莉乃より低く、感情を押さえつけるように静かでありながら、その奥には今にも崩れそうな危うさが滲んでいる。
「誰も困らない。誰も待っていない。自分が消えれば全部上手くいく。そうやって一人で答えを出して……残された人が、どんな気持ちになるかも考えない」
台本どおりの言葉が続く。
しかし、莉乃の瞳が見ているのは、物語の真冬ではなかった。
「俺がいたら、迷惑だろ」
次の台詞を読み上げると、莉乃の指が震えた。
「迷惑かどうかを決めるのは、あなたじゃない」
声がわずかに掠れる。
「私が困るの。私が嫌なの。あなたがいなくなったら、私は――」
そこで、本来なら台詞は途切れる。
雪乃は言葉を飲み込み、真冬の横を通り過ぎる。それが原作の場面だった。
けれど莉乃は、俺を見つめたまま動かなかった。
「莉乃?」
「……ごめん。止まれなかった」
雪乃の表情が消え、そこには泣きそうな莉乃が残っていた。
「清太がその台詞を言ったら、前のことを思い出した」
俺が彼女のためだと言いながら、離れようとした日のことだろう。今では話し合い、勝手に消えないと約束した。それでも、記憶に残った恐怖まで簡単に消えるわけではない。
「演技としては、悪くなかったと思う」
「本当に?」
「俺は引き込まれた。でも、莉乃自身の気持ちが強く出すぎてるかもしれない」
「雪乃じゃなくて、私になってた?」
「途中までは雪乃だった。最後は完全に莉乃」
正直に伝えると、莉乃は悔しそうに台本へ視線を落とした。
「難しいね。似てるから演じやすいと思ったのに」
「似てるからこそ、分けるのが難しいんじゃないか」
理解できる感情を使うことと、自分自身の感情をそのまま出すことは違う。俺には演技の専門知識などないが、雪乃として届かせるためには、莉乃自身の傷を見せるだけでは足りないのだろう。
「もう一回やろう」
「清太、嫌じゃない?」
「何が?」
「さっきみたいな台詞、言わせるの」
「これは練習だってわかってる。それに――」
俺は台本を置き、莉乃の手を取った。
「今の俺は、本当にいなくなろうとは思ってない」
小指へ二度触れる。
大丈夫。
近くにいる。
好き。
莉乃も二度返したあと、ゆっくり息を吐いた。
「次は、雪乃としてやる」
「うん」
「でも終わったら、莉乃に戻って抱きついてもいい?」
「そのくらいなら」
「キスも?」
「練習の成果次第」
冗談のつもりで言ったのだが、莉乃の目に急激な闘志が宿った。
「絶対、合格する演技にする」
「本番より報酬への執念が強くないか?」
「清太からの評価が一番大事だから」
莉乃は台本を握り直し、再び雪乃の表情を作った。
好きな作品のヒロインを、好きな人が演じようとしている。
その練習相手を、自分が務めている。
少し前まで、現実の青春など面倒でしかないと思っていた俺にとって、その状況はあまりにも出来すぎており、作品なら設定を盛りすぎだと笑っていたかもしれない。
それでも今は、この現実の続きを誰よりも見届けたいと思っていた。
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