好きなマンガのアニメ
重ねた唇が離れても、俺たちはすぐには身体を離さなかった。
触れていた時間そのものは、ほんの数秒だったはずだ。それでも、莉乃の頬に添えていた手には彼女の体温がはっきりと残っており、抱きしめられた胸の奥では、少し遅れて現実を理解した心臓が落ち着きなく鼓動を刻んでいる。
恋人になってから何度かキスはした。
だが、こうして二人で同じ物語を読み、その登場人物たちの感情へ自分たちを重ねた直後では、いつもよりも意味が深く感じられた。物語の真似をしたわけではない。俺たちは俺たちの意思で近づき、互いに触れたいと思ったから唇を重ねた。
その事実が、照れくさいほど嬉しかった。
「清太」
「なに?」
「一回だけって言ったよね」
「言ったな」
「今の、一回に数えていいの?」
「ほかに何として数えるんだよ」
「練習」
「何の練習だ」
「恋人らしいキスの」
莉乃は俺の胸へ頬を寄せたまま、いかにも真剣なことを話しているような声を作った。だが、背中へ回された腕は離れる気配を見せず、むしろ俺が警戒したことを察しているのか、逃がさないように少しだけ力を強めている。
「本番はまた今度」
「じゃあ今度は長くしてくれる?」
「予約は受け付けてない」
「清太、最近そればっかり」
「莉乃が何でも予約しようとするからだろ」
「だって、次があるって約束してほしいから」
何気なく返された言葉に、俺は少しだけ黙った。
莉乃にとって、次の約束は単なる甘いやり取りではない。今の幸せが突然終わらないと確かめるためのものでもある。付き合う前から彼女は、明日や来週の予定を必要以上に大切にしてきた。俺との関係に名前がついた今も、その不安が完全に消えたわけではないのだろう。
「次もあるよ」
俺は彼女の髪を撫でながら答えた。
「明日すぐかはわからないけど、これで終わりじゃない」
「本当に?」
「俺たちの話はまだ続くって、さっき言っただろ」
「最終巻まで?」
「打ち切られなければな」
「縁起でもないこと言わないで」
莉乃が身体を起こし、俺の肩を軽く叩いた。
その表情が少しだけ明るくなったことに安堵しながら、俺はローテーブルの上に置かれている特典小冊子へ目を向けた。最後のページには、本編の登場人物たちが二人で下校する挿絵が描かれている。
青春を否定していた主人公が、誰かと並んで歩くことを選ぶ。
以前の俺なら、その変化を物語だからできることだと思っていた。だが今では、学校からの帰り道に莉乃が隣にいないほうが不自然に感じる。フィクションへ抱いていた憧れが、少しずつ現実へ侵食しているようだった。
「そういえば、清太」
莉乃が俺から離れ、座り直した。
「まだ言ってなかったことがあるの」
「その前置き、不安になるんだけど」
「悪いことじゃないよ。たぶん」
「最後の一言で余計に不安になった」
莉乃は迷うように指を組み、しばらく視線を下げていた。
いつもなら俺との距離を縮めることに躊躇しない彼女が、言葉を選ぶように黙り込んでいる。仕事に関する話なのだろうと察した瞬間、昼間の事務所との問題が頭をよぎったが、莉乃の表情は怯えているというより、期待と緊張が入り交じっているように見えた。
「実は、事務所にオーディションの話が来てるの」
「ドラマ?」
「アニメ」
予想していなかった言葉に、俺は目を瞬いた。
莉乃はアイドルとして歌番組や雑誌だけでなく、ドラマやCMにも出演している。だが、声優としてアニメ作品へ関わったことは、少なくとも俺の知る限り一度もない。
「声の仕事もやるのか?」
「まだ決まってないよ。受けてみないかって言われただけ」
「何の作品?」
俺が尋ねると、莉乃はローテーブルの上にある本へ視線を向けた。
その瞬間、胸の中で何かが繋がる。
「……まさか」
「うん」
莉乃は緊張したように息を吸った。
「『学園ラブコメに青春はいらない!!』のアニメ化が決まったみたい」
頭の中が、数秒だけ完全に停止した。
「雪乃役のオーディションを、受けないかって言われてる」
俺は無言で本の表紙と莉乃の顔を交互に見る。
長年読み続け、自分とよく似た主人公へ勝手に共感し、そのヒロインの言葉に何度も救われてきた作品。その雨宮雪乃を、今、目の前にいる俺の恋人が演じるかもしれない。
情報量が多すぎて、感情が追いつかなかった。
「清太?」
「ちょっと待ってくれ」
「嫌だった?」
「逆だ。オタクとして処理できてない」
俺は額へ手を当てた。
「つまり、俺の推してる作品のヒロインを、俺の彼女が演じる可能性があるってことか?」
「そうなるね」
「そんな都合のいい展開、二次創作でも盛りすぎって言われるだろ」
「現実だよ」
「現実のほうが加減を知らないな……」
文化祭で告白し、トップアイドルと恋人になり、その恋人が俺の好きなラブコメのヒロイン役を受ける。
少し前の俺が聞けば、青春コンプレックスを刺激するために作られた悪質な妄想だと切り捨てていたに違いない。
「でも、まだ受けるって決めてないの」
「どうして?」
「私は声優じゃないし、原作のファンから嫌がられるかもしれない。それに、清太が大切にしてる雪乃を、私が下手に演じたら嫌われるかなって」
莉乃は不安そうに指先を握り込んだ。
それはアイドルとしてではなく、一人の原作ファンとしての迷いだった。好きな作品だからこそ、話題性だけで役を奪いたくない。俺の大切なものを壊したくない。
だから俺は、迷わず首を横に振った。
「受けてみてほしい」
「いいの?」
「役を取れるかは実力で決まる。それに、莉乃は雪乃がどんな気持ちで真冬を見てるか、ちゃんとわかってるだろ」
「……わかると思う」
「好きな人が逃げようとすると追いかけて、でも本当に嫌われるのが怖くて、強く見せながらずっと不安になってる」
「それ、雪乃の話?」
「半分くらいは」
「もう半分は私?」
「自覚あるだろ」
莉乃は少し頬を膨らませたあと、やがて小さく笑った。
「清太が応援してくれるなら、受けたい」
「俺もできることは手伝うよ。原作の解釈とか、台詞の相手くらいならできる」
「じゃあ清太が真冬役をやって」
「練習だけな」
「告白の場面も?」
「そこはもう実体験があるだろ」
「何回でも聞きたい」
「練習を私物化するな」
そう言いながらも、俺の胸は久しぶりに純粋な高揚感で満たされていた。
莉乃と付き合ったことで、俺の好きだった物語が奪われるのではない。
むしろ今度は、俺たち二人でその物語へ近づこうとしている。
青春などいらないと思っていた俺は、いつの間にか好きな人の青春を応援し、その舞台へ送り出そうとしていた。
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