ラブラブな2人と完璧じゃない恋人
書店を出るころには、窓の外に広がっていた夕焼けもすっかり薄れ、駅前の通りには白い街灯と店舗の看板が連なっていた。買ったばかりの『青春いらない!!』最新巻は鞄の中に大切にしまわれているものの、読み終えた余韻だけはまだ胸の内側に残り続けており、俺と莉乃は人通りを避けながら歩きつつ、文化祭編の展開について途切れることなく言葉を交わしていた。
恋人になったという事実は、俺たちがもともと共有していた趣味の時間まで、少しずつ違うものへ変え始めている。以前は同じ場面に興奮し、登場人物の感情を分析するだけで満足できたのに、今では主人公とヒロインの距離が縮まるたび、自分たちの出来事と比べずにはいられなかった。文化祭の終わった教室で告白する真冬と雪乃を読みながら、俺は莉乃へ告げた言葉を思い出し、莉乃もまた、あのときの俺の顔を思い返していたらしい。
「清太、真冬の告白、かなりよかったよね」
「よかった。派手な言葉じゃないのに、今まで逃げてきた理由まで含まれてたから、重みがあった」
「でも、清太のほうがよかった」
「恋人補正が強すぎる」
「私に向けて言ってくれた言葉だから、誰にも負けないよ」
莉乃は当然のように言い切ったあと、周囲へ視線を向け、人が途切れた瞬間だけ鞄の陰で俺の小指へ二度触れた。俺も同じ回数を返すと、彼女はそれだけで満足したように頬を緩める。
人前では手を繋げない。
身体を寄せることも、恋人らしい会話を大きな声ですることも避けなければならない。
それでも、俺たちは触れられないことを嘆くだけではなく、その制限の中で新しい距離の縮め方を探し始めていた。小指を二度触れる合図もそうだし、目が合ったときにわずかに笑うことや、人混みの中で互いの歩幅を合わせることも、今では俺たちだけに意味のある行動になっている。
「清太」
「なに?」
「このあと、少しだけ家に来ない?」
「莉乃の?」
「うん。特典小冊子も一緒に読みたい」
「さっき本編を読み終えたばかりだろ」
「だからこそ、今の気持ちのまま読みたいの」
理由としては理解できる。俺自身、特典小冊子の内容は気になっていたし、文化祭後の二人を描いた短編だと店頭の紹介にも書かれていた。ただし、莉乃の家へ二人きりで行けば、読書だけで終わる保証がないことも、最近の経験から十分に理解している。
「本当に読むだけ?」
「最初は」
「最初は、って言ったな」
「読み終わったあとは恋人の時間」
「区切り方が怖い」
「清太は嫌?」
莉乃は足を止めず、けれど少しだけ不安そうに俺を見た。恋人になってからの彼女は、以前より遠慮がなくなった一方で、俺が本当に嫌がっていないかを以前より細かく確認するようになっている。近づきたい気持ちが強いほど、拒絶されたときの痛みも大きくなることを、彼女自身が知っているからだろう。
「嫌じゃないよ。ただ、あまり遅くまではいられない」
「じゃあ来てくれる?」
「少しだけな」
莉乃の顔が一気に明るくなった。
※ ※ ※
莉乃の部屋へ着くと、俺たちはローテーブルを挟んで床へ座り、書店でもらった特典小冊子を同時に開いた。
本編で文化祭を終えた真冬と雪乃が、翌日の放課後に初めて恋人として向き合う短編だった。関係に名前がついた途端、それまで自然にできていた会話がぎこちなくなり、手を繋ぐだけで互いに意識しすぎてしまう。昨日までと何も変わらないはずなのに、恋人という言葉だけで景色が違って見える二人の姿は、あまりにも現在の俺たちと重なっていた。
ページをめくるうち、莉乃の肩が少しずつ近づいてくる。
最初は触れない程度。
次のページでは、袖がわずかに重なった。
さらに読み進めると、いつの間にか彼女の頭が俺の肩へ乗っていた。
「莉乃」
「読んでるよ」
「距離が変わってる」
「作中でも雪乃が近づいてるから」
「作品へ行動を合わせるな」
「聖地巡礼みたいなもの」
「部屋の中で成立する言葉じゃないだろ」
注意したものの、離れてほしいとは言わなかった。莉乃もそれを理解しているのか、俺の肩へ頭を預けたまま、ページへ視線を戻した。
短編の終盤、雪乃が真冬へ「付き合ったからといって、急に上手に恋人にならなくてもいい」と伝える場面があった。昨日まで積み重ねてきた関係を捨てるのではなく、その続きに恋人という名前が加わっただけなのだから、焦らず二人の速度で進めばいい。
その台詞を読んだ瞬間、俺はページをめくる手を止めた。
恋人になってからの俺は、無意識のうちに正しい恋人であろうとしていたのかもしれない。莉乃を不安にさせてはいけない。仕事との両立を支えなければならない。好きだと伝え、触れられない時間にも意味を持たせ、彼女が望む未来へ応えなければならない。
それらはすべて大切だ。
けれど、最初から完璧にできる必要はない。
文化祭で失敗しても皆と直せたように、恋人としての関係も、間違えたら話し合って戻ればいい。俺が怖さを完全に失う必要もなければ、莉乃が重い感情を突然軽くする必要もない。互いの不器用さを知ったうえで、それでも隣にいることを選び続ければいいのだろう。
「清太、どうしたの?」
莉乃が肩から顔を上げる。
「少し安心した」
「何が?」
「恋人になったからって、急に全部できるようにならなくてもいいんだなって」
俺が正直に話すと、莉乃はしばらく黙ったあと、小冊子を閉じて俺の手へ自分の手を重ねた。
「私も、ちゃんとした恋人にならないとって思ってた」
「莉乃も?」
「清太に嫌われないように、勝手に触らないようにして、重すぎることも少し我慢して、仕事のことで迷惑をかけないようにしないとって」
「最後以外は、少しくらい今までどおりでいいよ」
「勝手に抱きついても?」
「場所による」
「二人きりなら?」
「急に来ると驚く」
「でも、受け止めてくれる?」
「たぶん」
答えた直後、莉乃が俺の胸へ身体を預けてきた。
勢いは抑えられていたが、両腕はしっかり背中へ回されている。俺は少し驚きながらも、その身体を抱き返した。
「今のは?」
「聞いたあとだから勝手じゃない」
「都合のいい解釈だな」
「でも清太、離さない」
指摘され、俺は腕へ少しだけ力を込めた。
恋人だからといって、俺たちが急に別人になるわけではない。青春コンプレックスを抱えた面倒な俺と、好きな人の時間も未来も全部欲しがる重い莉乃。その二人が、幼馴染のふりから始まった関係の続きを、今度は恋人として作っていく。
「清太」
「なに?」
「私たちも、ゆっくり恋人になればいい?」
「もう恋人ではあるけどな」
「もっと恋人らしくなるのは、ゆっくりでいい?」
「うん。一緒に慣れていこう」
「でもキスはしたい」
「そこだけ速度を上げるな」
「一回だけ」
「今日は特典小冊子を読む約束だっただろ」
「読み終わった」
確かに最後のページまで読んでいた。
俺が返事に詰まると、莉乃は胸元から顔を上げ、急かさずに待った。俺は少し迷ったあと、彼女の頬へ手を添える。
「……一回だけな」
「うん」
今度は、どちらか一方が近づくのではなく、互いに少しずつ顔を寄せた。
俺たちが好きな物語と同じように、急がず、けれど止まらずに。
唇が触れる直前、莉乃が嬉しそうに目を閉じる。その表情を見ながら、俺も静かに瞼を下ろした。
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