これからの物語
放課後、俺と莉乃は駅前の大型書店へ向かっていた。
人通りの多い大通りでは、事務所から言われたとおり、互いの間にわずかな距離を空けて歩いている。肩が触れないほどの間隔は、他人から見ればごく普通のものだっただろうが、毎日のように手を繋ぐことが当たり前になっていた俺たちにとっては、意識しなければ維持できないほど不自然な距離だった。それでも、信号待ちで隣に並んだときや、人混みを避けて細い道へ入ったときには、鞄の陰で小指を二度だけ触れ合わせる。
大丈夫。
近くにいる。
好き。
声に出せない三つの意味を確かめるたび、莉乃の横顔からわずかな緊張が抜けていった。
今日、書店へ向かっている理由は一つしかない。
『学園ラブコメに青春はいらない!!』の最新巻発売日だった。
文化祭や告白、莉乃の事務所との問題が立て続けに起こったせいで、一時は発売日を忘れかけていた。だが昼休み、莉乃が俺のスマホに表示されていた書店アプリの通知を見つけた瞬間、放課後の予定は強制的に決定された。
「清太、予約特典は大丈夫?」
「店舗特典付きで取り置きしてある」
「さすが」
「この作品に関してだけは抜かりない」
「恋人の予定は忘れるのに?」
「忘れたことないだろ」
「私と会った記念日、一か月分言える?」
「細かく増やしすぎなんだよ」
莉乃が不満そうに頬を膨らませたが、書店の看板が見えた瞬間には表情を輝かせていた。
店内へ入り、新刊コーナーへ向かう。
平積みにされた新刊の表紙には、主人公の宮野真冬と、メインヒロインの雨宮雪乃が、夕暮れの教室で背中合わせに立つ姿が描かれていた。帯に書かれているのは、『文化祭、そして告白。青春を拒んだ少年が選ぶ答えとは――』という一文である。
俺と莉乃は、ほぼ同時に足を止めた。
「……文化祭編だ」
「告白もするみたいだね」
「発売時期に悪意を感じる」
「私たちに合わせてくれたのかも」
「作者が俺たちを知ってるわけないだろ」
表紙を見ているだけで、文化祭最終日の教室が蘇ってくる。
夕暮れ。
莉乃の涙。
震えながら告げた言葉。
初めて重ねた唇。
あの瞬間まで、俺は『青春いらない!!』の主人公を自分に重ねていた。青春を否定し、傷つくくらいなら何も求めないと決め、誰かに近づかれても逃げ道を残し続ける姿が、自分とよく似ていると思っていたからだ。
けれど今、表紙の主人公より先に告白を終えている。
まさか俺が、長年見守ってきたラブコメ主人公を恋愛進度で追い越す日が来るとは思わなかった。人生は時として、読者が受け入れられないほど急な展開を実装するらしい。
「清太、今すごく得意そうな顔してる」
「してない」
「真冬より先に告白したって思ってる?」
「……少し」
「私も思った」
莉乃が小さく笑う。
「でも清太のほうが格好よかったよ」
「まだ読んでないだろ」
「真冬が何を言っても、私に告白してくれた清太には勝てない」
「読者として公平に評価しろ」
「恋人だから無理」
俺たちはそれぞれ一冊ずつ新刊を購入し、特典の小冊子とイラストカードを確認したあと、書店に併設されたカフェへ移動した。
本来なら家へ帰ってじっくり読むべきだが、俺も莉乃も待てなかった。窓際の二人席へ向かい合って座り、飲み物が届くより先に本を開く。ページをめくる音だけが、しばらく俺たちの間を満たした。
物語の中では、文化祭の準備を通して距離を縮めた真冬と雪乃が、最終日の教室で向き合っていた。
真冬は青春などいらないと言い続けた理由を、初めて雪乃へ語る。期待したものを失うのが怖かったこと。誰かと過ごす時間を大切だと思えば、終わったときに傷つくこと。だから最初から何も欲しがらないふりをしていたこと。
文章を追うほど、胸の奥が静かに締めつけられた。
以前なら、わかると頷くだけだっただろう。何も求めなければ、失わずに済む。それは弱さではなく、自分を守るために必要な考えだと信じていた。
けれど今は、その先を知っている。
欲しがれば傷つくかもしれない。
誰かを好きになれば、失う恐怖も生まれる。
それでも、莉乃と過ごした文化祭を、最初からなかったことにしたいとは思わない。終わるのが寂しいと思えるほどの時間を持てたことは、傷つく可能性よりもずっと大切だった。
「清太」
莉乃の声に顔を上げる。
彼女は本を開いたまま、俺を見ていた。
「同じこと考えてた?」
「たぶん」
「真冬、清太に似てるね」
「昔の俺にはな」
「今は違う?」
俺は少し考え、手元のページへ視線を落とした。
真冬はまだ、雪乃へ好きだと言う直前で立ち止まっている。震える指を握り、逃げたい気持ちと戦っていた。
「今も怖いところは似てる。でも、俺はもう一回進んだから」
答えると、莉乃の表情が柔らかくなる。
「私のところまで?」
「うん」
「じゃあ、もう戻らない?」
「立ち止まることはある。でも戻るつもりはないよ」
莉乃はテーブルの下で、俺の小指へ二度触れた。
俺も同じように返す。
物語の中では、その直後、真冬が雪乃へ告白した。
飾り気のない、短い言葉だった。
俺と莉乃は同時にページをめくる手を止め、しばらく無言でその場面を読んだ。やがて莉乃が目元を押さえ、俺も誤魔化すように飲み物へ手を伸ばす。
「泣いてる?」
「清太も目赤い」
「コーヒーの湯気だ」
「もう冷めてるよ」
「細かいことはいい」
莉乃は笑いながら本を閉じた。
「やっぱり、ラブコメしか勝たないね」
「勝たんわ、だろ」
「じゃあ一緒に言おう」
周囲に聞こえない程度の声で、俺たちは顔を見合わせた。
「やっぱり、ラブコメしか勝たんわ」
言葉が重なった。
以前にも同じことを言った。
あのときは、同じ作品を好きな友人同士だった。
今は違う。
物語の告白を読みながら、自分たちの告白を思い出す恋人同士になっている。
「清太」
「なに?」
「私たちの話も、ラブコメみたい?」
「莉乃が勝手に幼馴染のふりをした時点で、設定だけならかなり強い」
「ヒロインは可愛い?」
「……可愛いよ」
「主人公は?」
「青春コンプレックスを拗らせた面倒な男」
「でも、最後はちゃんと告白してくれた」
「最後じゃないだろ」
俺が言うと、莉乃が目を瞬かせた。
「俺たちは付き合い始めたばかりだから。文化祭は最終回じゃなくて、一区切りだよ」
莉乃の瞳がゆっくり揺れる。
終わりを怖がる彼女へ、無意識に未来を差し出すような言葉だった。
「これからも続く?」
「続けたいと思ってる」
「ずっと?」
「一巻ずつだよ」
「最終巻まで?」
「そのくらい長くなったらいいな」
莉乃は本で顔を隠した。
けれど隠しきれなかった耳が、真っ赤に染まっている。
少し前まで、俺は青春などいらないと思っていた。
今も物語の中で読む青春は好きだし、現実のそれは相変わらず眩しくて、時々怖い。
それでも、莉乃と一緒にページをめくれるなら、俺は自分たちの物語の続きを読んでみたいと思っていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
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