その約束を守るために
翌朝、いつものコンビニ前で莉乃を見つけたとき、俺は反射的に彼女の手を取ろうとした。
しかし指先が触れる直前、昨夜の公園で交わした話を思い出し、伸ばしかけた手を止める。まだ早い時間とはいえ、駅から学校へ向かう生徒は少なくなく、少し離れた歩道には同じ制服を着た人影も見えていた。これまでなら深く考えずに手を繋いでいた道も、文化祭の写真が外へ流れ、事務所から注意を受けた今は、俺たちの関係を守るために気をつけなければならない場所へ変わっている。
莉乃も同じことを考えたのだろう。俺を見つけた瞬間には嬉しそうに駆け寄ってきたものの、いつもの距離より半歩手前で止まり、鞄を両手で抱えるように持ったまま、伸ばせない指先を隠していた。
「おはよう、清太」
「おはよう」
短い挨拶を交わし、並んで歩き出す。
肩が触れない程度の距離を保ちながら進む通学路は、昨日までより広く感じられた。実際には数十センチしか離れていない。それでも、毎朝当たり前のように伝わっていた体温が消えただけで、間に見えない壁が立っているように思えてしまう。
莉乃の仕事を守るためには必要なことだと理解している。
俺自身、人目にさらされることは苦手なのだから、本来なら距離を取れることに安堵してもおかしくない。ところが今の俺は、周囲の視線から逃れられる安心よりも、莉乃の手を握れない寂しさのほうを強く感じていた。
人と近づくことを恐れていた俺が、触れられないだけで物足りないと思っている。
その変化は、少し前の自分から見れば信じられないほど大きなものだった。
「清太」
「なに?」
「遠い」
莉乃は前を向いたまま、小さな声で呟いた。
「俺も思ってた」
正直に答えると、莉乃の横顔がわずかにこちらへ向く。
「清太も?」
「うん。手を繋がないだけで、こんなに違うとは思わなかった」
その言葉を聞いた莉乃の表情は嬉しそうに緩んだが、すぐに寂しさが混ざった。触れたいのに触れられないという感情は、俺よりも彼女のほうがずっと強いのだろう。莉乃は少しだけ歩幅を狭め、誰にも見えないように鞄の陰で小指を差し出した。
俺は周囲を確認し、自分の小指を一度だけ絡める。
ほんの数秒。
それでも莉乃は、失いかけたものを取り戻したように微笑んだ。
「これなら見えないね」
「ずっとは無理だぞ」
「学校に着くまで、何回かして」
「回数を決めるなよ」
「じゃあ清太がしたくなったとき」
莉乃はそう言ったあと、自分の手を引いた。
勝手に触れ続けるのではなく、次は俺が選ぶのを待っている。それが嬉しい反面、少しだけ胸が痛んだ。恋人になったことで安心するどころか、彼女は俺に嫌われないため、自分の欲求を以前より慎重に抑えようとしている。
だから俺は、次の角を曲がったところで、もう一度自分から小指を絡めた。
「清太」
「今、したくなったから」
「……うん」
莉乃はそれ以上何も言わなかった。ただ、離れるまでの短い時間、指先へ大切そうに力を込めていた。
※ ※ ※
学校へ着いてからも、俺たちは事務所との約束を守った。
教室では必要以上に身体を寄せず、休み時間も人目が多いときには互いの席で普通に話すだけに留めた。文化祭翌日ほどではないものの、俺たちの関係を知ったクラスメイトたちはまだ興味を隠せておらず、少し近づくだけでも視線が集まる。莉乃は笑顔で受け流していたが、机の下で何度も指を握りしめている姿を見れば、我慢していることは明らかだった。
以前の俺なら、周囲に見られないことへ安心し、彼女の寂しさを見ないふりしたかもしれない。
けれど今は、莉乃が距離を守ってくれていることを当然だとは思えなかった。
昼休みになると、俺は誰よりも先に弁当を持って立ち上がり、莉乃の席へ向かった。
「倉庫裏、行こう」
俺から誘うと、莉乃は驚いたように目を見開いた。
「清太から?」
「二人で話したい」
「今すぐ行く」
勢いよく立ち上がった莉乃の腕を掴みかけ、教室内に人がいることを思い出して止める。代わりに歩く速度を少し落とし、彼女が隣へ並ぶのを待った。
校舎裏の細い隙間へ入った途端、莉乃は我慢の糸が切れたように俺の胸へ飛び込んできた。
俺は予想していたため、よろめくことなく受け止める。
背中へ腕を回すと、莉乃は制服を強く掴み、朝から押し込めていた感情を俺の胸元へ預けるように顔を埋めた。
「清太、会いたかった」
「朝からずっと一緒だっただろ」
「近くにいたけど、遠かった」
「俺も遠く感じたよ」
そう答えると、抱きつく腕がさらに強くなる。
人前では恋人らしくできない。
写真に残されないよう気をつけなければならない。
それでも、二人きりになれる場所まで失ったわけではない。俺たちにはこの狭い隙間があり、公園があり、互いの家がある。誰にも見せる必要のない時間の中では、好きだという気持ちを隠さなくてもいい。
「莉乃」
「なに?」
「人前で手を繋げない代わりに、合図を決めないか」
莉乃が胸元から顔を上げた。
「合図?」
「小指を二回触ったら、大丈夫って意味。近くにいるとか、離れるつもりはないってことにする」
「好きって意味も入れていい?」
「勝手に増やすな」
「だめ?」
期待に満ちた目で見つめられ、俺は小さく息を吐いた。
「……それも入れていいよ」
「本当に?」
「声に出せない場所でだけな」
莉乃は泣きそうに笑い、俺の手を取った。
そして小指へ、自分の小指を二度触れさせる。
一度。
二度。
大丈夫。
近くにいる。
好き。
たった二回の接触に、莉乃は俺たちが口にできないすべての感情を込めた。
「清太もして」
俺は彼女の小指へ二度触れた。
莉乃の目から、一粒だけ涙が落ちる。
「泣くなよ」
「嬉しいから」
「これから毎回泣く気か?」
「清太がしてくれるたびに、少し泣くかも」
「学校では困るだろ」
「じゃあ我慢する」
莉乃はそう言いながら、俺の胸へもう一度身体を寄せた。
俺はその髪をゆっくり撫でる。
公には隠さなければならない恋人関係。
以前の俺なら、それを不安定で面倒なものだと思っただろう。
けれど今は、制限があるなら、その中で莉乃を安心させる方法を探したいと思える。触れられないなら合図を作り、話せないなら視線を重ね、会えない時間があるなら次に会う約束をする。
恋人になるということは、好きだと言った瞬間に完成するものではない。
相手が不安になったとき、自分にできることを考え続けることなのだと、俺は少しずつ理解し始めていた。
「清太」
「なに?」
「放課後、仕事ない」
「じゃあ一緒に帰ろう」
「人の少ない道で手繋いでいい?」
「うん」
「キスは?」
「それは予約できない」
「二人きりになったら?」
「そのとき考える」
「嫌ではない?」
俺は莉乃の頬へ手を添え、答える代わりに額へ軽く口づけた。
莉乃は驚いたまま固まり、数秒後、真っ赤になった顔を再び俺の胸へ隠す。
「今のは予約してない」
「俺がしたくなったから」
朝、莉乃が言った言葉を返す。
胸元から聞こえた小さな笑い声に、俺も自然と頬を緩めた。
人前では距離を置かなければならない。
それでも俺たちの気持ちまで遠ざかるわけではない。
むしろ触れられない時間があるからこそ、二人きりになった瞬間の体温を、以前よりも大切に感じられるようになっていた。
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