交際の秘密と世間の反応
放課後、莉乃は約束どおり仕事へ向かい、俺は一人で帰宅した。
文化祭の片づけがほとんど終わった校舎は、昨日までの熱気が嘘のように静かだった。廊下からは装飾を剥がす音が聞こえ、教室の隅には折り畳まれた段ボールと、使い切れなかった紙ナプキンの束が残されている。黒板の前に置かれていた『喫茶・夕暮れ』の看板も撤去され、そこには普段どおりの授業予定が書かれていた。
非日常が終われば、学校は驚くほど簡単に元の姿へ戻る。
それでも、俺の中まで元どおりになったわけではなかった。
昨日までなら、莉乃の仕事に迷惑がかかると知った瞬間、俺は自分から離れる理由を探していただろう。自分が消えればすべて解決する。誰かを傷つけるくらいなら、一人に戻ったほうがいい。そんな考えを、優しさや責任感のように見せかけながら受け入れていたはずだ。
だが今日、俺は莉乃へ別れないと言った。
一人では決めないとも約束した。
恋人になった以上、俺の選択はもう俺だけのものではない。自分を守るために突然消えれば、それは莉乃を置き去りにすることになる。その重さを怖いと感じる一方で、誰かと一緒に問題へ向き合うということが、少しだけわかり始めていた。
家へ帰ってからも、莉乃から連絡は来なかった。
撮影中なのか。
事務所との話し合いが長引いているのか。
何度もスマホを確認し、通知がないたびに画面を閉じる。机の上には読みかけの『青春いらない!!』が置かれていたが、文字を追っても内容が頭へ入ってこない。物語の主人公であれば、こういうときに格好のいい答えを出すのかもしれない。相手の夢を守るために身を引くか、世間すべてを敵に回してでも手を取るか。どちらにしても、読者が納得するほど強い覚悟を示すのだろう。
現実の俺には、そんな綺麗な決断はできなかった。
莉乃の仕事は守りたい。
別れたくもない。
世間から注目されるのは怖い。
彼女が批判されるのはもっと怖い。
矛盾した感情ばかりが胸の内側で絡まり、正解がどこにあるのかわからなくなる。それでも、以前と一つだけ違うことがあった。
俺は、答えが出ないままでも莉乃を待とうとしていた。
午後九時を過ぎたころ、ようやくスマホが震えた。
『今、終わった』
短いメッセージだった。
俺はすぐに立ち上がり、上着を羽織った。
『どこにいる?』
『いつもの公園。会ってもいい?』
『今行く』
家を出て、夜道を急ぐ。
何度も通った道だったが、今日はやけに長く感じた。街灯の下を抜け、住宅街の角を曲がり、公園の入口が見えてくる。昼間なら子供たちの声が響く場所も、夜は静まり返っており、ベンチの前に立つ莉乃の姿だけが淡い光に照らされていた。
仕事帰りらしく、制服ではなく落ち着いた色の私服を着ている。帽子を深くかぶり、顔の半分を隠すようにマスクをつけていたが、俺を見つけるとすぐに立ち上がった。
「清太」
「待たせた?」
「ううん。私が呼んだばかりだから」
互いに近づいたものの、莉乃はすぐには抱きついてこなかった。いつもなら迷わず距離を詰める彼女が、今日は俺の反応を確かめるように数歩手前で止まっている。その様子だけで、事務所との話し合いが簡単なものではなかったことが伝わってきた。
「何て言われた?」
俺が尋ねると、莉乃は俯いたまま答えた。
「写真はまだ大きく広がってないって。でも、これ以上増えたら問題になるかもしれないって言われた」
「俺とのことは?」
「聞かれた。付き合ってるのかって」
「何て答えた?」
「付き合ってるって言った」
莉乃らしい答えだった。
隠すことも、曖昧に誤魔化すこともできたはずなのに、彼女は正直に伝えたのだろう。
「怒られた?」
「少し。でも、別れろとは言われなかった」
莉乃はそこで一度言葉を切り、指先を強く握り込んだ。
「ただ、外では気をつけること。仕事に影響が出るような行動はしないこと。学校でも、写真に撮られそうな場所では距離を考えること。それから、清太のことを公には話さないこと」
「そうか」
「清太は嫌?」
「何が?」
「恋人なのに、隠されるの」
莉乃の声には、俺を失望させることへの恐怖が滲んでいた。
俺は少し考えた。
正直に言えば、残念だと思う部分はある。付き合い始めたばかりで、手を繋ぐことも、一緒に帰ることも、ようやく自然にできるようになったばかりだ。それを人目がある場所では控えなければならない。
けれど、それは俺たちの関係を否定することとは違う。
「嫌じゃないよ」
「本当に?」
「莉乃の仕事は大事だろ。俺も壊したくない」
「でも、清太を隠すみたいで」
「隠されても、俺が莉乃の恋人じゃなくなるわけじゃない」
そう言うと、莉乃が顔を上げた。
「学校で手を繋げない日があっても、外で距離を取ることがあっても、二人でいるときまで変わる必要はないだろ」
「清太」
「俺は有名人じゃないから、莉乃が抱えてるものを全部理解することはできない。でも、できる範囲で合わせるよ。無理なことがあったら話すし、莉乃も黙って決めないでほしい」
「うん」
「それから、ひとつだけ」
「なに?」
「俺に迷惑をかけるから別れたほうがいい、みたいなことは言うなよ」
莉乃の瞳が揺れた。
それは今日の昼、俺がしかけたことと同じだった。
相手のためという理由を使い、自分一人で関係を終わらせようとする。俺がそうしないと約束した以上、莉乃にも同じことを求めたかった。
「言わない」
「本当に?」
「怖くなったら言う。でも、勝手に離れない」
「うん」
「清太も?」
「俺も」
約束を交わした瞬間、莉乃の身体から力が抜けた。
次の瞬間、彼女は数歩の距離を一気に埋め、俺の胸へ飛び込んできた。俺はその身体を受け止め、背中へ両腕を回す。外では距離を取らなければならないと話した直後だったが、公園にはほかに誰もいなかった。
「会いたかった」
「昼も会っただろ」
「長かった」
「数時間だよ」
「清太に別れようって言われるかもしれないと思ってた」
胸元へ押しつけられた声が震えている。
俺は莉乃の髪をゆっくり撫でた。
「言わないよ」
「仕事を選べって言われても?」
「それを俺だけで決めるなって言っただろ」
「でも、もし両方は無理だって言われたら?」
「そのとき一緒に考える」
「答えが出なくても?」
「出るまで考える」
以前の俺なら、こんなふうには言えなかった。
未来が保証されていなければ、約束することを避けた。傷つく可能性が少しでもあれば、最初から何も持たないほうを選んだ。
今も怖い。
それでも、莉乃と一緒に悩む未来なら、逃げずに迎えてみたいと思えた。
「清太」
「なに?」
「キスしてもいい?」
「ここで?」
「誰もいない」
莉乃が顔を上げる。
帽子の影から覗く瞳は、昼間よりもずっと弱く、不安を隠せていなかった。
俺は周囲を確認したあと、彼女のマスクへ指をかけた。
「少しだけ下げて」
「清太からしてくれる?」
「今日はな」
莉乃がマスクを下げ、ゆっくり目を閉じる。
俺は頬へ手を添え、唇を重ねた。
短く、けれど確かに。
離れたあとも、莉乃は目を閉じたままだった。
「もう一回」
「約束は一回だよ」
「足りない」
「また明日」
そう答えると、莉乃が目を開けた。
「明日もしてくれる?」
「二人になれたら」
「明後日は?」
「一つずつ増やすんだろ」
俺が言うと、莉乃はようやく笑った。
恋人になって最初に直面した問題は、簡単には消えなかった。
それでも俺たちは、相手のために離れるのではなく、相手と一緒に残ることを選んだ。
公園を出るとき、俺たちは人通りのある道へ入る前に手を離した。
けれど指先が離れる直前、莉乃は小指だけを絡めた。
誰にも見えないほど短い時間。
それでも、俺たちには十分だった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。
応援が次回更新の励みになります!




