決して壊れない想い
昼休みを迎えるころには、俺と莉乃が付き合い始めたという事実は、すでにクラス内だけでは収まらなくなっていた。
文化祭用の宣伝ポスターが掲示された時点で俺たちの関係を疑っていた生徒は多かったらしく、そこへ今朝の騒ぎが加わったことで、噂は廊下を伝い、別のクラスへまで広がっている。休み時間になるたび、教室の前には莉乃を見に来た生徒が現れ、その視線は必ず隣の席にいる俺へも向けられた。悪意を露骨に表す者はいなかったが、好奇心と驚きが入り交じった視線を浴び続けるだけでも、胸の内側には少しずつ息苦しさが積もっていった。
莉乃と付き合ったことを後悔しているわけではない。
昨夜の告白も、今朝皆の前で好きだと答えたことも、取り消したいとは思わなかった。それでも、誰かを好きになっただけで自分の日常がこれほど大きく変わるとは、正直想像していなかった。俺にとって恋愛は、物語の中で眺めるものであり、主人公たちが周囲から冷やかされる場面も、ページをめくれば終わる程度の出来事だった。
現実では、ページを閉じても視線は消えない。
「清太、行こう」
昼休み開始のチャイムが鳴ると同時に、莉乃が弁当を持って俺の席へ来た。周囲の生徒が一斉にこちらを見る中、彼女はまるで気にする様子もなく、俺の机の上に置かれていた弁当箱まで持ち上げる。
「自分で持てるよ」
「恋人だから持ちたい」
「恋人は荷物係じゃないだろ」
「じゃあ、清太が私の持つ?」
「結局交換するだけじゃないか」
俺が莉乃の弁当を受け取ると、彼女は満足そうに笑った。そんな何気ないやり取りだけで周囲から小さな声が上がり、俺は逃げるように教室を出たが、莉乃はその横を歩きながら、俺の制服の袖をしっかりと掴んでいた。
向かったのは、校舎裏にある倉庫と倉庫の隙間だった。
入学直後、俺が一人で昼休みを過ごすために見つけた場所。莉乃に発見されてからは二人の居場所となり、いつの間にか俺たちはここで弁当を食べ、『青春いらない!!』について語り、互いの過去や感情を少しずつ知っていった。
恋人になった今日も、景色そのものは変わらない。
古い倉庫の壁。
頭上に細く切り取られた空。
二人で座るには少し狭い木箱。
けれど莉乃が俺の隣へ腰を下ろし、以前よりも迷いなく肩を寄せてきた瞬間、同じ場所がまったく違って感じられた。
「近いよ」
「恋人だから」
「その言葉を万能にするな」
「最初は幼馴染だからって言ってた」
「幼馴染ですらなかったけどな」
「今は本物の恋人」
莉乃は嬉しそうに繰り返し、俺の肩へ頭を預けた。
その重みを感じながら弁当箱を開く。以前なら、昼休みに誰かと身体を寄せ合って食事をするなど、落ち着かないだけだったはずなのに、今では莉乃が隣にいない日のほうが不自然に思えるようになっている。人間の慣れというものは恐ろしい。特に相手が、遠慮という概念を少しずつ破壊してくるトップアイドルの場合、その進行速度は通常の何倍にもなるらしい。
「清太」
「なに?」
「食べさせて」
「自分で食べろ」
「恋人になって数少ないお昼なのに?」
「記念日を細かく増やしすぎだろ」
「初めては一回しかないから、全部大事にしたい」
そう言われると、拒否しづらかった。
俺は卵焼きを箸で取り、周囲に人がいないことを確認してから莉乃の口元へ運ぶ。莉乃は嬉しそうに口を開き、食べ終えると、今度は自分の弁当から小さな唐揚げを取った。
「はい、清太も」
「俺はいい」
「恋人になって最初の、あーん」
「名称が長い」
結局、差し出された唐揚げを食べる。
莉乃はそれだけで満足したように微笑んでいたが、次の瞬間、制服のポケットでスマホが震えると、その表情がわずかに硬くなった。
画面へ表示された名前を見た莉乃は、俺から少し身体を離して通話に出た。声の調子は普段より落ち着いており、仕事中の星宮莉乃へ切り替わっている。短い応答を何度か繰り返したあと、通話を終えた彼女は、スマホを握ったまま俯いた。
「マネージャーさん?」
「うん」
莉乃は小さく頷いた。
「文化祭の写真が、少し外に出てるみたい」
心臓が重く沈んだ。
校内用の宣伝ポスターや、生徒が撮影した写真。そのどれかが、SNSへ投稿されたのだろう。トップアイドルである莉乃が、見知らぬ男子と親しげに並び、手まで繋いでいたと知られれば、単なる学校内の噂では済まない。
「事務所から、何か言われた?」
「今日の仕事が終わったあと、話をするって」
「俺とのことも?」
「たぶん」
莉乃は平静を装っていた。
しかし、膝の上で握られた手が、かすかに震えている。
俺が隣にいることで、莉乃の仕事へ迷惑がかかる。ファンを失うかもしれない。仕事が減る可能性だってある。そんな未来を想像した瞬間、中学時代から繰り返し聞いてきた言葉が、胸の奥で蘇った。
お前のせいで、周りが困る。
できないなら、余計なことをするな。
俺は無意識に、莉乃から身体を離しかけた。
「清太」
すぐに手首を掴まれた。
莉乃の瞳から、わずかに光が薄れている。
「離れるの?」
「違う。ただ、俺がいると莉乃の仕事に――」
「別れたほうがいいって言う?」
声が震えていた。
それは怒りではなく、恐怖だった。ようやく手に入れた関係を、たった一日で失うかもしれないという恐怖が、莉乃の顔から血の気を奪っている。
俺は一度目を閉じた。
また同じことをしようとしていた。
相手のためだと言いながら、自分が責められる前に消えようとしていた。失敗する可能性があるなら、最初から何も持たないほうがいい。その考えに戻れば、確かに傷つかずに済むのかもしれない。
だが、それは莉乃のためではない。
俺が怖いだけだ。
「別れないよ」
俺は莉乃の手を握り返した。
「でも、莉乃の仕事を壊したくない。それは本当だ」
「清太は壊してない」
「これから何を言われるかわからないだろ」
「それでも、勝手にいなくならないで」
「いなくならない」
今度は迷わず答えた。
「一緒に考える。隠したほうがいいなら、学校の外では気をつける。事務所から説明が必要だと言われたら、俺もできることをする。でも、莉乃が嫌だと言ってないのに、俺だけで別れるなんて決めない」
莉乃の目から、涙がこぼれた。
「本当に?」
「昨日、逃げないって言っただろ」
「今日も?」
「今日も。明日も」
「仕事が大変になっても?」
「怖くはなると思う。でも、莉乃に言う。一人では決めない」
莉乃は俺の胸へ顔を埋め、両腕を背中へ回した。
俺も彼女を抱きしめる。
恋人になれば、幸せなことばかりが待っているわけではない。むしろ、今まで曖昧だったから避けられていた問題が、これからは現実として押し寄せてくるのだろう。
それでも俺は、もう莉乃の手を離したくなかった。
「清太」
「なに?」
「今日、仕事が終わったら会いたい」
「遅くなっても?」
「会いたい」
「わかった。待ってる」
莉乃は胸元で小さく頷いた。
恋人になって最初の一日は、甘いだけの日にはならなかった。
けれど俺たちは初めて、問題が起きた瞬間に離れるのではなく、同じ場所へ残ることを選んだ。
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