恋人としての始まり
文化祭の翌朝、目を覚ました俺は、枕元に置いていたスマホを手に取ったまま、しばらく画面を開くことができなかった。
昨夜、家に帰ってから届いた莉乃のメッセージは、通知欄に表示されているだけでも二十件を超えている。その大半は短い文章だったが、内容はどれも似通っていた。告白が夢ではないか、俺たちは本当に恋人になったのか、明日になっても俺の気持ちは変わらないのか。幸福を何度も確認しなければ安心できない彼女らしい言葉が、時間を置きながら延々と送られていた。
俺はそれらを一つずつ読み返し、最後に送られてきた写真で指を止めた。
文化祭終了後、夕暮れに染まった教室で撮った一枚だった。俺と莉乃が完成した看板の前に並び、互いの身体を少しだけ寄せている。告白より前に撮影したものなので、写真の中の俺たちはまだ正式な恋人ではない。しかし今の俺には、あの時点ですでに互いの気持ちが隠しきれていなかったことがはっきりとわかった。
『清太、おはよう。起きたら連絡して。昨日のことを忘れていたら、思い出すまで説明するから』
最新のメッセージを見た俺は、小さく息を吐いた。
忘れるはずがない。
莉乃へ好きだと告げたことも、付き合ってほしいと頼んだことも、彼女が泣きながら抱きついてきたことも、そのあと初めて唇を重ねたことも、すべて鮮明に残っている。むしろ意識しないようにしても勝手に蘇ってくるせいで、昨夜はまともに眠れなかった。
『覚えてる。今から行く』
そう返信すると、一秒も経たないうちに既読がついた。
『待ってる。恋人として』
最後の五文字を見た瞬間、胸の奥が強く脈打った。
恋人。
昨日までは、幼馴染のふりをした少女と、それに振り回されるだけの俺だった。今は違う。俺たちの関係には明確な名前があり、その名前をつけたのは、逃げ続けていた俺自身だった。
嬉しい。
同時に、怖い。
手に入れたものは、失う可能性を持つ。誰かを好きだと認めれば、その人に拒絶されたときの痛みから逃げられない。中学時代の俺が人との距離を閉ざしたのも、結局はその恐怖に耐えられなかったからだ。
それでも、もう戻りたいとは思わなかった。
文化祭の教室で莉乃へ伝えた言葉は、勢いではない。昨日一日だけの熱に浮かされたわけでもない。俺は彼女がいないと寂しくて、ほかの男へ笑いかける姿に嫉妬し、会えれば安心して、触れたいと思った。その気持ちを恋と呼ばずに済ませるほうが、もはや不自然だった。
制服へ着替え、家を出る。
いつものコンビニが見えてくると、その前にはすでに莉乃が立っていた。制服姿の彼女は、俺を見つけた瞬間に一歩踏み出し、けれど走り出す直前でどうにか踏みとどまった。
周囲には登校中の生徒がいる。
トップアイドルである彼女が俺へ飛びつけば、余計な注目を集めることくらい理解しているらしい。
「おはよう、清太」
「おはよう、莉乃」
互いに挨拶をしたあと、不自然な沈黙が落ちた。
昨日までは自然に繋いでいた手が、今日は妙に遠く感じる。恋人になる前ならできていたことを、関係に名前がついた途端に意識してしまう。我ながら面倒な精神構造だと思うが、莉乃も同じなのか、鞄を持っていないほうの手を何度も開いては閉じていた。
「清太」
「なに?」
「昨日のこと、本当に覚えてる?」
「覚えてるよ」
「私たち、付き合ってる?」
「付き合ってる」
「私、清太の恋人?」
「そうだよ」
確認するたび、莉乃の表情が少しずつ柔らかくなる。
「清太は、私の恋人?」
「同じ質問だろ」
「清太の口から聞きたい」
「……俺は莉乃の恋人だよ」
その瞬間、彼女の瞳に溜まっていた不安が一気に消えた。
莉乃は嬉しそうに笑うと、ためらいがちに手を差し出した。いつものように勝手に握るのではなく、俺が選ぶのを待っている。その変化が少し意外で、俺は数秒間、差し出された手を見つめてしまった。
「恋人になったから、もう勝手にしないようにする」
「急にどうしたんだよ」
「清太が嫌なことはしたくないから」
昨日までの莉乃なら、俺の逃げ道を塞ぐことに迷いなど見せなかった。だが恋人になったことで、むしろ大切にしようとする気持ちが強くなったのだろう。手に入れたから安心したのではない。失うことへの恐怖が、さらに現実的になったのかもしれなかった。
俺は差し出された手を取った。
指を絡め、いつもより少しだけ強く握る。
「嫌だったら、ここまでしてないよ」
「清太」
「恋人になったからって、急に全部変えなくていい。嫌なことがあったら言うし、怖くなったら止まる。でも、莉乃と離れたいわけじゃない」
莉乃は何も答えず、繋いだ手を胸元へ寄せた。
泣きそうな顔をしている。
「朝から泣くなよ」
「清太が優しいから」
「昨日も泣いただろ」
「昨日と今日は違う」
「何が?」
「昨日は恋人になれたから。今日は恋人の清太が、まだ隣にいてくれたから」
その言葉を聞き、俺はようやく彼女が何度も確認した理由を理解した。
莉乃は告白されたことより、その翌日も関係が続いていることを確かめたかったのだ。幸せな瞬間が終われば、すべて夢のように消えてしまう。そんな不安を抱えたまま、一晩を過ごしていたのだろう。
「明日もいるよ」
「明後日は?」
「いる」
「来週も?」
「いるよ」
「来年は?」
「気が早い」
「でも」
「少なくとも、逃げるつもりはない」
未来を断言するのは今も怖い。それでも莉乃を安心させるためだけではなく、自分自身の意志として、その言葉を口にすることができた。
「だから一つずつ増やそう。今日一緒に登校して、昼も一緒に食べて、放課後も帰る。明日になったら、また明日の約束をする」
「毎日?」
「毎日」
「それなら、ずっと約束できるね」
「解釈が重いな」
「清太の毎日、全部予約する」
「予約制度は禁止しただろ」
莉乃がようやく笑った。
その笑顔を見ながら、俺たちは学校へ向かって歩き出す。文化祭は終わり、校内から派手な装飾も少しずつ取り外されていく。あれほど眩しかった非日常は終わり、今日からまた普通の学校生活が戻ってくる。
けれど俺にとっては、何も元通りではなかった。
隣を歩く莉乃は、もう幼馴染のふりをしている少女ではない。
俺が好きだと告げ、自分から選んだ恋人だった。
「清太」
「なに?」
「今日、教室で恋人って言ってもいい?」
「やめろ」
「原さんと篠崎さんにだけ」
「すぐ全員に広がるだろ」
「じゃあ聞かれたら否定しない?」
俺はすぐに答えられなかった。
噂になる。
注目される。
トップアイドルの莉乃と付き合っていると知られれば、きっと何かを言われる。怖さは今も消えていない。
それでも、莉乃との関係をなかったことにするような否定だけはしたくなかった。
「自分から言いふらすのはなし」
「うん」
「でも聞かれたら、俺は否定しない」
莉乃の指が強く絡んだ。
「私も否定しない」
「莉乃は最初から隠す気ないだろ」
「だって嬉しいから」
「学校では少し抑えろよ」
「恋人らしくする」
「それが一番不安なんだよ」
俺の言葉など聞こえていないように、莉乃は幸せそうに肩を寄せてくる。
文化祭の終わりに始まった俺たちの関係は、まだ最初の朝を迎えたばかりだった。
そしてこのときの俺は知らなかった。
恋人という名前を手に入れた莉乃が、幼馴染のふりをしていた頃よりも、はるかに遠慮なく俺との距離を詰め始めることを。
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