こうして二人の出会いの春は幕を閉じる
昼休憩に入った俺たちは、中庭に並ぶ屋台を端から眺めながら、人の流れに押されるようにして歩いていた。
普段であれば、見知らぬ人間の声や足音が幾重にも重なる場所に長くいるだけで、身体の奥がじわじわと強張っていただろう。誰かの肩が触れるたびに謝り、進む方向が重なれば道を譲り、自分の存在が周囲の邪魔にならないよう神経を尖らせる。それが俺にとっての人混みであり、学校行事など、その息苦しさを何倍にも増幅させる場所でしかなかった。
けれど今日、俺の右手には莉乃の手がある。
指を絡めたまま離れようとしない彼女の体温を感じていると、四方から押し寄せてくる喧騒の中にも、自分が立っていていい場所が確かに残されているように思えた。誰かと一緒にいることで疲れるのではなく、誰かがいるから呼吸を続けられるという感覚を、俺はようやく知り始めていた。
「清太、あれ食べたい」
莉乃が指差したのは、二年生のクラスが出している大判焼きの屋台だった。看板には、餡子とカスタードのほかに、文化祭限定らしいチョコレート味まで並んでいる。
「半分ずつにするか?」
「うん。清太が選んで」
「それならカスタードで」
「私もそれがよかった」
「本当か?」
「清太が選んだ時点で、それが一番になった」
「食べ物の好みまで俺に合わせるなよ」
「合わせてないよ。清太と同じものが好きになっただけ」
相変わらず一見すると綺麗で、その実かなり重い言葉だった。
大判焼きを一つ買い、近くにあったベンチへ腰を下ろす。人通りの絶えない中庭では、軽音楽部の演奏がステージから響き、屋台の呼び込みや来場者の笑い声がその音へ重なっていた。莉乃は包装紙に包まれた大判焼きを半分に割ろうとしたが、柔らかな生地がうまく切れず、中のカスタードが端から溢れそうになる。
「貸して」
俺が受け取り、紙の上で慎重に二つへ分けると、莉乃は大きいほうを俺へ差し出した。
「莉乃が食べろよ」
「清太、午前中ずっと働いてたから」
「莉乃だって同じだろ」
「私は清太を見てたから元気」
「栄養の摂取方法がおかしい」
結局、ほとんど同じ大きさに分け直し、二人で食べた。
特別な味がするわけではない。市販の生地と甘いカスタードを使った、文化祭らしい素朴な食べ物だ。それでも、隣で莉乃が美味しそうに頬を緩ませているのを見ていると、その味まで長く記憶に残りそうな気がした。
食べ終わったあと、俺たちは校舎内を回った。
お化け屋敷へ入れば、莉乃は暗闇そのものには平然としているくせに、俺の腕へ強くしがみつき、脅かし役が出てくるたびに離れるどころか身体を密着させてきた。怖がっているのか尋ねれば、怖いのは俺とはぐれることだと言い張り、出口まで腕を解こうとしなかった。
縁日では射的を行い、莉乃が欲しがった小さな猫のキーホルダーを俺が落とすと、彼女は景品よりも、それを取ろうとしてくれた事実を喜んだ。自分の鞄へつけたあと、何度も指先で触れながら、これは清太が初めて文化祭で取ってくれたものだと繰り返した。
写真部の展示では、校内の何気ない風景を収めた作品を二人で眺めた。夕暮れの階段、雨に濡れたグラウンド、誰もいない音楽室。華やかな瞬間ではなく、日常の中にある静かな景色ばかりだったが、俺は不思議と足を止めてしまった。
「こういう写真、好き?」
莉乃に聞かれ、俺は少し考えてから頷いた。
「誰もいない場所なのに、誰かがいたことはわかるから」
「清太みたい」
「どういう意味だよ」
「ずっと一人でいたように見えても、本当は誰かに見つけてほしかった感じがする」
その言葉へ、すぐには答えられなかった。
俺は一人が好きだと思っていた。
実際、一人でいることは楽だった。誰かに期待されず、失望されず、傷つけられることもない。自分の部屋へ閉じこもり、好きな作品を読み、誰にも踏み込まれない時間を過ごしていれば、少なくとも心を守ることはできた。
けれど、本当に一人でいたかったのなら、物語の中の青春へあれほど惹かれることもなかったのだろう。
友達と笑う主人公。
放課後に並んで歩く男女。
くだらないことで喧嘩をし、それでも翌日にはまた隣にいる登場人物たち。
俺はそれらを否定しながら、ずっと欲しがっていた。
「そうかもしれない」
俺が答えると、莉乃は少し驚いたように目を瞬かせた。
「否定しないの?」
「今日は、そういうことを否定したくないんだ」
「文化祭だから?」
「莉乃と一緒だから」
莉乃は何も言わず、俺の手を握った。
人の流れの中で足を止めることはできなかったため、そのまま歩き続ける。しかし絡められた指には、言葉よりも強い力が込められていた。
※ ※ ※
休憩時間が終わると、俺たちは再び『喫茶・夕暮れ』へ戻った。
午後になっても客足は途絶えず、むしろ宣伝を聞きつけた来場者が増えたことで、午前中以上の忙しさになった。莉乃へ視線が集まることには多少胸がざわついたが、今度はその感情を理由に彼女へ冷たくすることはなかった。客へ笑顔を向けたあと、莉乃は必ず一度だけ俺を見る。その視線に気づくたび、あの笑顔のすべてが同じではないのだと思い直すことができた。
俺も会計だけでなく接客へ回り、注文を取って、飲み物を運んだ。
最初は作り笑いすらぎこちなかったが、忙しさの中で何度も繰り返しているうちに、余計なことを考える暇がなくなった。客から「雰囲気がいいですね」と褒められれば素直に礼を言い、小さな子供がクリームソーダをこぼしたときには、周囲の生徒と協力してすぐに拭いた。
失敗は起きた。
注文を一つ間違えた。
伝票の順番も一度混ざった。
グラスを運ぶ途中で、危うくトレーを傾けそうにもなった。
それでも、誰も俺を責めなかった。間違いに気づいた仲間が助け、俺も別の誰かの失敗を補った。失敗した人間を一人だけ切り離すのではなく、その場にいる全員で元へ戻す。それが集団で何かをするということなのだと、俺はこの日になって初めて理解した。
「高原、三番テーブルお願い!」
「わかった!」
「清太、こっちは私が持つ」
「重いほう俺が持つよ」
「じゃあ一緒に」
莉乃と二人でトレーを運び、同じテーブルへ品物を置く。
客から礼を言われ、並んで頭を下げる。
ただそれだけのことが、俺にはひどく眩しかった。
かつての俺が遠くから眺め、勝手に自分とは無関係だと決めつけていた青春の中に、今は自分自身がいる。その事実は、派手な感動ではなく、長く凍っていた場所へ少しずつ温度が戻ってくるように胸へ広がっていった。
午後三時を過ぎるころ、文化祭終了を知らせる予告放送が流れた。
残り一時間。
その瞬間、教室にいた全員の顔へ、終わりを惜しむような色が浮かんだ。
忙しさから解放されたいと思う一方で、この場所がなくなることを寂しく感じている。きっと皆、似たような気持ちだったのだろう。
莉乃も一瞬だけ動きを止めた。
俺と目が合う。
彼女は笑ったが、その笑顔の奥には隠しきれない寂しさがあった。
「清太」
「うん」
「あと一時間だね」
「最後まで頑張ろう」
「終わっても、隣にいてね」
「いるよ」
以前なら、軽々しく約束することを怖がった。
けれど今は、迷わず答えることができた。
最後の一時間を、俺たちは精一杯働いた。
列の最後尾へ札が立てられ、残っていた客を順番に案内し、最後のクリームソーダを運ぶ。やがて店内にいた客が全員退室すると、原が入口の看板を裏返した。
『本日の営業は終了しました』
その文字が見えた瞬間、教室は数秒だけ静まり返った。
誰かが拍手した。
続いて別の誰かも手を叩き、すぐに大きな拍手と歓声が教室を満たした。
「終わったー!」
「お疲れ!」
「売上どうだった!?」
「一年で一位いけるんじゃない?」
笑い声の中で、俺も手を叩いた。
胸の奥には、やり遂げた喜びと、終わってしまった寂しさが同時にあった。それは矛盾しているようで、きっとどちらも本物だった。
原が全員を黒板の前へ集め、最後の集合写真を撮ろうと言った。
今度の俺は、呼ばれる前から莉乃の隣へ立った。
彼女が驚いたように俺を見る。
「清太から来た」
「実行委員だからな」
「それだけ?」
「莉乃の隣がいいから」
小さな声で答えると、莉乃の目元が潤んだ。
「泣くなよ。写真に残るぞ」
「清太が泣かせるから」
「笑って」
「清太を見たら笑える」
撮影直前まで莉乃を見て、シャッターが切られる瞬間に正面を向く。
今度の写真で、俺はきっと自然に笑えていた。
※ ※ ※
文化祭終了後、教室では簡単な片づけだけが行われた。
大がかりな撤去は翌日に回され、食材と会計関係のものだけを整理する。売上は想定を大きく上回り、クラス全体がもう一度盛り上がった。
すべての確認を終えるころには、窓の外が夕焼けに染まっていた。
クラスメイトたちは、それぞれ友人と後夜祭へ向かったり、家族と帰ったりして、少しずつ教室を出ていく。原と篠崎も最後に俺たちを見て、何かを察したように「戸締まりよろしく」とだけ言い残した。
扉が閉まる。
祭りの終わった教室に、俺と莉乃だけが残った。
夕暮れを模して作った喫茶店へ、本物の夕日が差し込んでいる。橙色の光が看板を照らし、机にかけられた茶色のクロスを柔らかく染めていた。廊下からは、後夜祭へ向かう生徒たちの声が遠く聞こえる。
莉乃は黒板の前に立ち、完成した看板を見つめていた。
「終わっちゃったね」
「うん」
「楽しかった?」
「楽しかったよ」
「後悔してない?」
「してない」
「本当に?」
「本当に」
俺は莉乃の隣へ立った。
一か月前の俺なら、文化祭実行委員へ立候補したこと自体を後悔していただろう。準備に追われ、他人と協力し、失敗すれば迷惑をかける。そんな未来を恐れて、始まる前から逃げ道を探したはずだ。
けれど、今この教室に残っているのは後悔ではない。
終わることへの寂しさ。
もう一度、最初から過ごしてもいいと思えるほどの名残惜しさ。
そして、この時間を俺へ与えてくれた莉乃への感情だった。
文化祭準備が始まってから、俺は何度も彼女に助けられた。
怖くなったとき、無理に引っ張るのではなく待ってくれた。
逃げそうになれば、それでも選ぶのは俺だと教えてくれた。
過去の俺まで抱きしめ、今の俺が戻ってくる場所になってくれた。
その莉乃へ、俺はずっと曖昧な言葉しか返してこなかった。
大事な人。
一番近い人。
好きになってきている。
どれも嘘ではない。
だが、本当に伝えるべき言葉だけを、俺は怖がって避け続けていた。
文化祭が終われば言おうと、いつ決めたのかはわからない。
ただ、今日一日を莉乃と過ごし、彼女の手を握って校内を歩き、同じ教室で働き、終わりを迎えた今、もう逃げたくないと思った。
「莉乃」
「なに?」
「こっち向いて」
莉乃が振り返る。
夕日に照らされた彼女の顔は、いつもより少しだけ不安そうだった。
「清太?」
心臓が激しく鳴っている。
これまでとは比べものにならない。
失敗したらどうしよう。
言葉を間違えたらどうしよう。
関係が変わるのが怖い。
そんな感情が、次々と胸へ湧いてくる。
それでも、逃げる理由にはならなかった。
「俺、文化祭が嫌いだった」
「うん」
「正確には、文化祭みたいなものが怖かった。皆で何かをして、笑って、思い出を作るのが、自分には関係ないと思ってた。そう思ってないと、欲しくなって苦しかったから」
莉乃は何も言わず、俺の言葉を待っている。
「でも今回、莉乃がいたから逃げずに済んだ。買い出しも、準備も、写真も、今日の接客も全部楽しかった。莉乃と一緒だったから、俺もここにいていいんだって思えた」
声が震える。
それでも続ける。
「最初は、莉乃が勝手に幼馴染のふりをして、勝手に距離を詰めてきて、正直すごく困った」
「……うん」
「拒否したら曇るし、逃げたら追いかけてくるし、俺の時間も思い出も全部欲しがるし、重いし、面倒くさいし」
「清太」
莉乃の瞳から、少しずつ光が薄れ始める。
「最後まで聞いて」
俺は彼女の手を取った。
「でも、その全部が莉乃だった。俺を見つけて、諦めずに隣へいてくれた莉乃を、いつの間にか俺も探すようになってた。いないと寂しくて、ほかの男と話してたら嫉妬して、会えたら安心して、触れたいって思うようになった」
莉乃の指が震える。
俺は逃がさないように、両手で包み込んだ。
「莉乃が好きだ」
ようやく言えた。
それは驚くほど短い言葉だった。
けれど、その二文字へ辿り着くために、俺はずいぶん遠くを歩いてきた気がした。
「大事な人だからとか、一番近いからとか、そういう言い方で誤魔化さない。俺は星宮莉乃が好きだ」
莉乃の目から涙がこぼれた。
「清太」
「俺と、付き合ってください」
教室が静まり返る。
遠くから後夜祭の音楽が聞こえていた。
俺は莉乃の答えを待った。
彼女は泣きながら、何度も頷いた。
「うん」
声が震えている。
「うん。付き合う。清太と付き合いたい」
「……よかった」
「ずっと待ってた」
「遅くなってごめん」
「本当に遅い」
「ごめん」
「でも、清太が自分から来てくれた」
莉乃は俺の胸へ飛び込んできた。
今までで一番強く抱きつかれ、俺もその身体を両腕で受け止める。莉乃の肩が細かく震え、制服の胸元へ涙が染みていく。
「清太が私を好きって言った」
「言ったよ」
「付き合ってって言った」
「うん」
「もう逃げない?」
「怖くなって立ち止まることはあると思う」
「そのときは?」
「莉乃に言う」
「一人で消えない?」
「消えない」
「私の恋人?」
「そうだよ」
恋人。
その言葉を自分へ向けられた瞬間、胸の奥が熱くなった。
俺と莉乃の関係に、初めてはっきりとした名前がついた。
莉乃は顔を上げ、涙に濡れた瞳で俺を見る。
「清太」
「なに?」
「キスしてもいい?」
心臓が跳ねる。
以前なら、答えを先延ばしにしただろう。
だが、今日の俺はもう逃げないと決めていた。
「俺からする」
莉乃が息を呑む。
「目、閉じて」
「うん」
彼女がゆっくり目を閉じる。
俺は頬へ手を添え、涙の跡を親指で拭った。
額ではない。
髪でも、頬でもない。
互いの呼吸が触れ合う距離まで顔を近づける。
怖さはあった。
それでも、その向こうにいる莉乃へ触れたいという気持ちのほうが強かった。
俺は目を閉じる。
そして、莉乃の唇へ自分の唇を重ねた。
ほんの一瞬。
柔らかな熱が触れ、離れる。
莉乃は目を開けたあと、信じられないものを見るように俺を見つめていた。
「清太」
「……なに?」
「もう一回」
「最初から要求が多いな」
「恋人だから」
「その言葉を便利に使うなよ」
「だめ?」
俺は少しだけ笑った。
そして今度は、莉乃から顔を寄せてくるのを止めなかった。
二度目の口づけは、最初よりも少し長かった。
窓の外では夕日が沈み始め、校舎を包んでいた祭りの音も、ゆっくりと遠ざかっていく。
俺がずっと拒み続けてきた青春。
欲しくないふりをして、逃げ続けてきた時間。
その終わりに残ったのは、後悔ではなかった。
腕の中で幸せそうに笑う莉乃と、これからも彼女の隣にいたいという、もう誤魔化す必要のない気持ちだった。
こうして俺たちの文化祭は終わった。
そして同時に。
幼馴染のふりから始まった俺と莉乃の関係は、本物の恋人として、ようやく新しい一歩を踏み出した。
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