文化祭当日
そして、文化祭当日がやって来た。
朝。
校門をくぐった瞬間から、いつもの学校ではなかった。
正門には色とりどりのアーチが飾られ、校舎の窓には各クラスの宣伝ポスターが並んでいる。中庭からは軽音楽部のリハーサル音が聞こえ、普段なら眠そうに歩いている生徒たちも、今日は朝から妙に浮き足立っていた。
廊下を走る生徒。
衣装を抱えたまま階段を上る生徒。
なぜか巨大な段ボール製の剣を持っている男子。
俺の青春コンプレックスが、校門を入った時点で過剰反応を起こしていた。
これだ。
昔の俺が最も苦手としていた光景。
青春という名の暴力が、学校全体を占領している。
以前なら、この時点で帰宅を検討していただろう。
しかし今は。
「清太!」
背後から声がした。
振り返る。
莉乃がこちらへ走ってきた。
制服姿。
まだエプロンには着替えていない。
けれど今日が楽しみで仕方ないという表情を隠しきれず、いつもより足取りまで軽い。
「おはよう」
「おはよう、莉乃」
「今日だね」
「うん」
「逃げない?」
「朝一番に確認するなよ」
「大事だから」
莉乃は俺の前で立ち止まると、少し不安そうにこちらを見る。
俺は校舎を見上げた。
飾りつけられた窓。
聞こえてくる笑い声。
これから始まる、文化祭。
「怖くないわけじゃないよ」
正直に答える。
「でも、逃げない」
「ほんと?」
「うん」
俺は莉乃の手へ触れた。
自分から。
指を絡める。
「今日は最後までいる」
莉乃の瞳が揺れた。
「私と?」
「莉乃とも。クラスの皆とも」
そこまで言った瞬間、自分でも少し驚いた。
以前の俺なら、絶対に口にできなかった言葉だった。
莉乃は泣きそうに笑う。
「清太」
「なに?」
「今すぐ抱きつきたい」
「朝の校門前だぞ」
「じゃあ予約」
「文化祭でまで予約制度を導入するな」
「今日だけで何回予約できる?」
「一回もできない」
「じゃあ無制限?」
「逆だよ」
莉乃は楽しそうに笑った。
その笑顔を見て、俺も少しだけ緊張がほどける。
文化祭当日。
いよいよ始まる。
※ ※ ※
「高原! クリームソーダ用のシロップ確認した!?」
「した! メロンとブルー、どっちも冷蔵庫!」
「紙ナプキン足りる?」
「予備が後ろの棚にある!」
「莉乃、看板少し右!」
「わかった!」
「篠崎、寝るな!」
「起きてるよー」
「目閉じてるじゃん!」
開場三十分前。
教室は戦場だった。
昨日まで何度も確認したはずなのに、当日になると次々に問題が見つかる。
メニュー表の位置。
トレーの不足。
会計用の釣り銭。
紙コップの並べ方。
接客班の動線。
客席の椅子が一脚だけ微妙にぐらつく。
俺は会計台と教室の奥を往復しながら、一つずつ確認していった。
「高原!」
「今度は何!」
「これ、釣り銭の千円札少なくない?」
「さっき増やした!」
「ほんとだ!」
「頼むから確認してから呼んでくれ!」
自分の声が教室に響く。
誰かに必要とされる。
頼られる。
以前なら怖かった。
一つ失敗すれば全部自分のせいになる。
期待されれば、次も応えなければならない。
そんなふうに思っていた。
でも今は。
「清太」
莉乃が近づいてくる。
白いブラウスに黒いスカート。
腰にはフリル付きの白いエプロン。
以前の試着時よりも髪を綺麗に整え、胸元には小さなリボンまでつけている。
「どう?」
「似合ってる」
「早い」
「前にも見ただろ」
「今日は本番」
「今日も可愛いよ」
莉乃が固まった。
「……清太」
「何?」
「今それ言う?」
「聞いたのは莉乃だろ」
「今日一日ずっと頑張れる」
「なら働いてくれ」
俺が軽く額を指で押すと、莉乃は嬉しそうに笑った。
すると、その様子を見ていた原が手を叩く。
「はいはい! 本番前に二人の世界入らない!」
「入ってない」
「高原くん、莉乃の額触ったじゃん!」
「邪魔だったから」
「私、もっと邪魔する」
「莉乃も乗るな」
「はい、皆!」
原が大きく手を叩く。
「あと十分! 最後に集合!」
教室の中央へ、クラスメイトたちが集まる。
俺も莉乃と並んで輪の中へ入った。
少し前までなら、こういう集まりの端にいた。
あるいは最初から入らなかった。
今は違う。
「絶対成功させるぞー!」
原が拳を上げる。
周囲から声が返る。
「おー!」
俺は一瞬だけ迷った。
でも隣を見ると、莉乃がこちらを見ていた。
何も言わない。
ただ笑っている。
俺も拳を上げた。
「おー!」
声が出た。
自分でも驚くくらい、自然に。
莉乃の顔が一瞬だけ泣きそうになる。
「莉乃」
「なに?」
「今は泣くなよ」
「泣いてない」
「目潤んでる」
「清太のせい」
「今日ずっとそれ言う気か?」
「たぶん」
そして。
校内放送が流れた。
『ただいまより、本年度文化祭を開始します』
歓声。
廊下から、いくつもの声が聞こえる。
俺たちの文化祭が始まった。
※ ※ ※
開始十五分。
「高原、会計!」
「はい!」
「二名様入りまーす!」
「窓際空いてる!」
「星宮さん、写真いいですか!?」
「店内撮影は禁止です! ごめんなさい!」
「クリームソーダ二つ!」
「ブルー一つ、メロン一つ!」
「高原! 千円!」
「お釣り四百円!」
忙しい。
想像以上だった。
宣伝用ポスターの影響もある。
トップアイドルである莉乃を一目見ようとする客もいる。
何より、教室そのものの完成度が予想以上に高かった。
廊下には早くも列ができている。
俺は会計台から顔を上げる暇もない。
「ありがとうございました!」
客を送り出す。
次の伝票。
計算。
釣り銭。
また次。
頭の中が数字だけになる。
「清太」
ふいに莉乃の声がした。
顔を上げると、彼女がトレーを持ったまま立っている。
「これ、七番テーブル」
「そこ置いて」
「うん」
莉乃は伝票を置いた。
しかし、戻らない。
「どうした?」
「清太、顔怖い」
「忙しいから」
「水飲んだ?」
「あとで」
「今」
「客待ってるぞ」
「三秒で飲める」
莉乃は会計台の下から、俺の水筒を取り出した。
「はい」
「……ありがとう」
俺は受け取り、一口だけ飲む。
「これでいい?」
「うん」
「莉乃も無理するなよ」
「清太が見てくれてるから平気」
「俺、会計でほとんど見られないけど」
「じゃあ見て」
「仕事しろ」
「一秒だけ」
莉乃が俺を見る。
俺も見る。
ほんの一秒。
でも、それだけで少しだけ息ができた。
「頑張ろう」
「うん」
莉乃は笑って接客へ戻っていった。
俺も会計へ戻る。
忙しい。
疲れる。
それでも。
楽しい。
俺は確かに、そう思っていた。
※ ※ ※
午前十一時。
事件が起きた。
「高原!」
原が青ざめた顔で走ってくる。
「どうした?」
「氷が足りない!」
「は?」
「想定よりクリームソーダ出すぎ!」
冷凍庫を見る。
本当に少ない。
このままではあと三十分も持たない。
「近くのコンビニで買うしかないな」
「でも外出許可――」
「先生に言う。許可取れたら俺が行く」
「清太」
莉乃が横から声をかける。
「私も行く」
「莉乃は残れ」
「でも」
「今、莉乃が抜けたら接客班がもっと大変になる」
少し強めに言う。
莉乃の表情が曇りかける。
俺はすぐに続けた。
「戻ってくるよ」
「……ほんと?」
「氷買いに行くだけだぞ」
「でも」
「逃げない」
その言葉を口にすると、莉乃が黙った。
「ちゃんと戻ってくる」
俺はもう一度言う。
莉乃は数秒俺を見つめ、やがて小さく頷いた。
「待ってる」
「うん」
「絶対?」
「絶対」
先生から外出許可をもらい、俺は同じクラスの男子一人と近くのコンビニへ走った。
昔なら。
問題が起きた瞬間、自分には関係ないと思っただろう。
誰かがやればいい。
失敗したら責められる。
だから前へ出ないほうがいい。
そう思っていた。
今は違う。
自分から行くと言った。
戻るとも約束した。
息を切らしながら氷を買い、学校へ戻る。
教室へ向かう。
そして扉を開けた瞬間。
「清太!」
莉乃が真っ先にこちらを見た。
「ただいま」
言った。
自然に。
莉乃が一瞬止まる。
それから、泣きそうに笑った。
「おかえり」
「氷持ってきたぞ!」
俺が袋を掲げると、教室から歓声が上がった。
「救世主!」
「高原ナイス!」
「間に合った!」
「クリームソーダ続行!」
笑い声。
拍手。
俺は少し照れながら、氷を調理班へ渡した。
「ありがとう、高原」
「助かった」
「マジで危なかった」
いくつもの声。
頼られる。
感謝される。
胸の奥に、昔の声が少しだけ蘇る。
『お前のせいで周りが困ってるじゃないか』
でも今は。
『助かった』
違う声が、それを上書きする。
「清太」
莉乃が隣に来た。
「ちゃんと戻ってきた」
「当たり前だろ」
「うん」
莉乃は笑う。
「清太は戻ってきてくれる人なんだね」
胸の奥が、少しだけ痛くなる。
でも嫌な痛みではなかった。
「莉乃が待ってるから」
そう答えると。
莉乃は完全に固まった。
「……清太」
「今は仕事」
「でも今の」
「あとで」
「絶対あとで聞く」
「予約するな」
「これは予約する」
文化祭当日でも、莉乃はいつも通りだった。
それが妙に安心した。
※ ※ ※
午後零時半。
ようやく俺と莉乃の休憩時間が来た。
「清太!」
「わかってるから走るな!」
エプロンを外した莉乃が、教室の外で待っていた。
俺も会計を次の担当へ引き継ぐ。
「一時間だけだからな」
「一時間もある」
「どこ行く?」
「清太と一緒ならどこでも」
「一番困る答えだな」
「じゃあまず屋台」
「何食べたい?」
「清太と半分こできるもの」
「目的が食事じゃないだろ」
莉乃は笑いながら俺の手を取った。
廊下には多くの生徒と来場者。
いつも以上の人混み。
以前なら、人目を気にして離したと思う。
今日は違った。
俺も握り返す。
「迷子になるなよ」
「清太が離さなければ大丈夫」
「高校生だろ」
「今日は迷子になりたい」
「意味がわからない」
「清太に探してもらえるから」
「最初から隣にいろよ」
「うん」
莉乃は嬉しそうに、俺の肩へ少しだけ寄った。
廊下には文化祭の喧騒。
教室から聞こえる笑い声。
焼きそばの匂い。
遠くではバンド演奏。
中庭には人だかり。
俺はその中を、莉乃と手を繋いで歩いている。
昔の俺が見たら、何と言うだろう。
たぶん信じない。
文化祭なんて嫌いだ。
青春なんていらない。
そう言うはずだ。
でも今の俺は。
「莉乃」
「なに?」
「楽しいな」
足が止まった。
莉乃の。
「……清太?」
「何?」
「もう一回」
「嫌だよ」
「聞きたい」
「今言っただろ」
「文化祭、楽しい?」
莉乃が俺を見上げる。
期待と、不安と、喜び。
いくつもの感情が混ざった顔。
俺は少し笑った。
「楽しいよ」
「私と一緒だから?」
「それもかなり大きい」
「一番?」
「また順位つけるのか」
「大事」
俺は少しだけ考えるふりをした。
でも答えは決まっていた。
「一番だよ」
莉乃の瞳が揺れる。
「莉乃と一緒だから、今日ここにいる」
言った瞬間。
莉乃が俺の腕へ抱きついた。
「おい、人いるぞ」
「もう無理」
「何が?」
「好き」
「知ってるよ」
「大好き」
「それも知ってる」
「清太も?」
そこで止まる。
俺の心臓が大きく鳴る。
莉乃は無理に答えを求めなかった。
ただ、腕に抱きついたまま俺を見る。
俺は少し迷ってから、彼女の手を握り直した。
「……今は、続き回ろう」
「逃げた?」
「少し」
「でも手は離さない?」
「離さない」
莉乃は笑った。
「じゃあ、それでいい」
俺たちは再び歩き始めた。
手を繋いだまま。
文化祭初日。
まだ昼を少し過ぎただけ。
これから回る場所もある。
一緒に食べるものもある。
夕方には、また教室へ戻る。
そして文化祭は、まだ終わっていない。
でも俺はすでに思っていた。
今日という日を、きっと一生忘れない。
昔の俺が逃げた青春の中を。
今の俺は、莉乃と手を繋いで歩いていた。
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